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by seagull_blade

狂虎。(中島敦:『山月記』)

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教職員や執筆者・編集者を愚弄するつもりは毛頭無いが、教科書、特に国語の教科書と言うものは、卒業するとそのまま忘れてしまうようなものではないだろうか。試しに小中学校の国語の教科書に取り上げられていた物語や文章を思い出していただきたい。殆ど覚えていらっしゃらないのではないだろうか。私もご多分に漏れず、さっぱり覚えていない。強いて覚えているといえば、「平家物語」や「奥の細道」の冒頭、杜甫や李白の絶句や律詩など、定期試験の為に暗記したものだけである。当時はどちらかといえば得意ではなかったのに、現代文よりは古文・漢文の方が覚えていると言うのもおかしいのだが。古文や漢文の方が、朗読の為に創られたものなので、リズムが良くて、覚えているのかもしれない。

とは言うものの、現代文で殆ど唯一覚えている、教科書に掲載されていた小説がある。タイトルに書いたとおり、中島敦の『山月記』である。年次は忘れてしまったが、高校生の現代文の教科書に掲載されていた。国語担当の教師が非常に朗読が上手な男性教師で、一寸古いが『若山源蔵氏』のようなバリトンで朗々と読み上げていた。
「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く…」
よくあるパターンだが、授業はなかなか先に進まず、毎回イントロから朗読していたので、この冒頭だけはすっかり暗記してしまった。

先日、ふと立寄った本屋で「李陵・山月記」を新潮文庫で見つけて購入、久しぶりに再読してみた。国語教師の見事な朗読の所為も勿論あるが、高校生当時の私がどうしてこの小説に何某かの印象を受け、今まで覚えていたのだろうか。

中島敦は漢籍古典の翻案物を得意とした。西遊記の沙悟浄を主人公にした『悟浄出世』や、列子の寓話を下敷きにした『名人伝』などある。この『山月記』も李景の『人虎伝』のストーリーを使用した翻案ものとなっている。どちらの物語も、傲慢で才気走った「李徴(りちょう)」という役人が、職を辞した後、発狂して行方不明となる。かつての友人であり、同僚であった「袁傪(えんさん)」が、勅命で商於という場所を通りすぎる際に、虎に襲われかけたが、虎は直ぐに草むらに消え、人語を話す。「袁傪」はその声から虎がかつての友人「李徴」であることを知り、戸惑いながらも再会を喜び、虎に変身した事情を聞いて驚き、家族の後生を頼まれ、そして別れるというものである。

『山月記』は原作の『人虎伝』をほぼそっくりそのまま踏襲しているが、勿論、現代の小説家である中島敦は単純な物語にいくらかの手を加え、現代の読み手にも耐えうる深みを持った小説としている。原作では、李徴が虎に変身してしまった原因として、不義密通の天罰としているが、中島敦はこれを「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為」に求めている。狷介孤高な主人公李徴は若い頃、才能があるが故に尊大であり、多くの人には不愉快な人間だと思われていた。彼は「己は特別」だと思い込み、それ故に周囲を見下していた。その思い込みゆえに、「賎吏に甘んずるを潔しとしなかった」李徴は己の才能を偉大な詩人になることに向けた。

10代後半から20代前半あたりの学生時代に、「サラリーマン」という響きが、あまりにも「平凡」で先が見えているように思い込み、もっと特別で、華やかな職に就きたかったり、「普通でない」ものになりたくなる時期というものがあるのではないだろうか。李徴が偉大な詩人になりたがったように、ミュージシャンなりたかったり、或いはビル・ゲイツのようになりたかったりと。

だが、ここで多くの人は気が付く。己自身の才能がそれほどのものではないことを。そして、仮に才能があったとしても、大成功する為には運や度胸も大いに必要だと言うことも。そして、大部分の若者が「平凡」な何かへ成って行く。勿論、その平凡な何者かになることでさえ、それほど簡単ではないことも悟ってゆく。だが、李徴はプライドの高さ故、それさえもできない。彼は言う。「己の珠に非ざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の球なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。」と。その狂おしさが彼の姿を虎にしてしまう。

前にも記したが、私は割と勉強ができる方であった。スポーツも、さして運動神経が良い訳ではなかったが、中学時代は陸上部に所属して、校内で私より足の速い生徒は何人も居なかっただろう。喧嘩もまあ強いほうであったと思う。また、読書は子供の頃から好きだったので、同じ年頃の子供の間では、それなりに知識は多いほうであった。こうした子供が、増長慢にならない訳はない。こうした傲慢さは周囲には直ぐ伝わるから、周囲からは孤立していく。私の場合、喧嘩も出来たので、所謂「いじめ」には合わなかったが、やはり「浮いて」いた。周囲から距離を置かれれば、その分、周囲を見下すことでプライドを維持し、そうすれば更に傲慢になって孤立していく。だが、一方で、実は「俺がアホなだけなのではないのか。計測可能な才能では劣らないが、それ以外の部分でははなはだ劣るのではないのか。」という疑念もある。大学の前半まで、こんな調子であった。ここから脱することができたのは、当時の彼女や友人達のお陰である。

中島敦の『山月記』が私の記憶に唯一残る教科書の題材であるのは、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」に悩む李徴へ私自身を重ね合わせていたかららしい。周囲のお陰でどうにかこうにか平凡さを得た私は「狂える虎」にならずに済んだ。友人達や付き合ってくれた女性が差し伸べてくれた「手」を死ぬまで私は感謝しつづけるつもりである。
by seagull_blade | 2004-10-23 16:51 | reading lamp