Have a life outside of work.


by seagull_blade
a0012892_214533.jpg日本経済が回復基調にあるそうだ。実感としてはさほどではないが、「政府発表は詐術だ!」と言うほど不景気だとは思わない。確かに少し回復している。新宿のタクシー待ち行列が3・4年前よりも確実に長くなっているし、モノが売れないといっても差別化に成功した商品はかなり高額でも売れている。例えば「デジタル家電三種の神器」の一つDVDレコーダは10万円前後の製品にもかかわらず、飛ぶように売れている。(アテネ五輪の前だからだが…)2004年の国内販売予想台数は360万台(日立製作所調べ)である。ただ、「差別化」という点がバブル期と違う。百貨店で買物をする人、100円ショップで買物をする人が同じであるという点が、現在の景気の見極めを難しくしていると思う。
失われた10年といわれた90年代より、日本経済はようやく目覚めつつあるというのが諸外国の評価であるらしい。しかし「実感としてさほどではない」のはなぜだろうか?

2003年、日本のリーディングカンパニートップ300社の利益率25%は上位5社によって占められているという。(Business Week調べ) 利益率は即ち生産性である。ということは上位5社の生産性は抜群だがその他の企業はまるでなっていないということになる。生産性の向上はリストラクチュアリングの大きな柱であったはずだ。実際には「restructuring」ではなく、多くの企業で「リストラ」という名の首切りが行われただけで生産性など向上せず、残ったメンバーが残業などで業務を回しているというのが現状なのだろう。サービス残業を含めるとトップ300社でも実際の利益がどの程度出ているのかは疑わしい。しかもこれは大企業に限った話である。

日本の就労人口の内60%が務める中小零細あるいはハイテクノロジー・自動車産業以外の企業は依然として厳しい状態に置かれている。筆者はかつて「日刊不渡りドキュメント」というメールマガジンを受信していたことがある。具体的には勿論書くことは出来ないのだが、毎日相当数の中小零細企業が不渡りを出し倒産している。景気は回復基調にあるとはいえ、やはり濃淡が激しい状況である。因みに日本の平均所得水準はアメリカより30%程度劣ると言われている。

突然話が変わるのだが、「自由である」というのはどういうことであろうか。筆者が学生時代に読んだ、心理学者のエーリッヒ・フロム(Erich Fromm)の著作「自由からの逃走」に(あまり明確に覚えていないのだが)「自由とは無限の可能性ではあるが同時に無限の不安である」という趣旨を書いていた。「全くの自由」に人間は耐える事ができないのだと。日本経済のというより日本人の商売が行き詰まりをみせる時、この「自由」という概念をどのように捉えるかが最大の鍵であると筆者は思う。フロムが主張したように自由(FREE)とは「無い」という言葉と同義であり、実際英語においては同一の単語を使う。日本語で自由とすると「制約が無い」というニュアンスが強いが、「保証が無い」というニュアンスは殆ど含まれていない。

経済の競争相手としてのアメリカは実態はともかくとして「FREE」を国是としている。勿論「制約も保証もない」というの意味での自由である。「自由の国アメリカ」を「制約も保証も無い国アメリカ」と捉えなおせばより明確になるかもしれない。すると経済力における彼我の差の根本的原因がここにあると筆者は思う。

先に断っておくが、筆者は個人事業主の息子として生まれ、地元の商店街に愛着のある人間のつもりである。それ故にアメリカ式自由競争に諸手を挙げて賛成することなど出来ない。外資系コンサルタントやビジネススクールで出会った講師たちのように弱肉強食を安易に是とすることにはどうしても違和感がある。

さて、「自由の国」アメリカのホワイトカラーは日本のホワイトカラーの数倍は働くと言われている。実際、筆者が付き合いのある某外資系大手SIベンダーで働くSEやコンサルタント達は、筆者から見ても「ちょっと真似できない」位によく働く。また別の外資系大手コンピュータメーカに勤めている筆者の会社OBは30代半ばで年収が1500万だそうだが年間で3-4日しか休暇を取らない。取れないのではない。取らないのだ。また、彼等の働きぶりで特徴的なのは「集中している」ということだ。筆者のように仕事の合間にブログを更新する事などありえない。あるとすれば業務の一環である。また彼等は新しいスキルにすぐ飛びつく。情報も早い。「馬鹿は最初に走り出す」と茶化したくなるぐらいに。

なぜそれほど働くことができるのか。或いは向上心を持ちつづけることができるのか。答えは勿論「自由」だからである。今日の制約も無いが明日の保証も無いからである。彼等は日本企業では考えられないほどの緊張と不安の中で仕事をしている。アメリカでサラリーマンは「気楽な稼業」ではない。ボンヤリとしていれば、すぐに自分の仕事をアウトソースされクビになってしまう。日本の大企業のように「彼には家庭があるから」「誰にでも生活があるから」とは決して考えてくれない。(それ故に精神疾患が日本よりも遥かに多いと聞く。ティーンエージャーではなく20代~50代だ。)これらの不安(恐怖というべきか)が生産性を向上させる根本的な原因であると思う。

「泳ぎつづけなくては死んでしまう」マグロのような仕事を日本人は拒否する。だがそれ故にrestructuringは進まず、生産性は向上しない。サラリーマンにおいては会社がイコール生活の場となっている人も多いだろう。筆者もまさにそうである。だが「自由からの逃走」を続ける限り、長い眠りは終わらないと思える。社会主義的でもなく、アメリカ的でもない「自由との闘い方」は無いのだろうか。恐らくないのだろうが…。
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# by seagull_blade | 2004-06-10 21:46 | philosophism
a0012892_131941.jpgニコロ・マキアベリ(1469-1527)はルネサンス期のフィレンツエ共和国外交官である。彼は『IL PLINCIPE(君主論)』に代表される著作の中でユニークな政治思想を論じている。「目的が正しければ手段は常に正当化されるのである(君主論)」など一種の性悪説・悪の肯定ともとれる論考を行い、政治(手法)と倫理を切り分けて論じた。その為「マキャベリズム」は理想主義の対極に位置するものとされ、プロイセン王フリードリヒ2世の「アンチ=マキャベリズム」を始めとして悪の政治の代名詞として非難されて来た。アメリカなどは自らの政治を「アンチ=マキャベリズムの伝統」などと称している。(笑止千万)

だが現実に多くの物事がマキャベリズムで動いている。「どのようにすれば最大の効果を上げることができるのか?」「どのようにすると最悪の結果を招いてしまうのか?」ということを倫理・道徳を含めたあらゆるしがらみから自由に考えることそのものがマキャベリズムだからである。さて、このシリーズは流通業界とITなので、マキャベリの話は他に譲って本論に入りたいと思う。

前回はパレートの(2:8)法則、CSM(顧客階層分マーケティング)、RFM指標をキーワードとして小売業界でのカード(クレジット・ポイント)戦略の簡単な紹介を行った。今回はPOSシステムを中心として顧客情報収集の具体的な方法を紹介したい。

POSシステムはPoint Of Sales system の略称であり、「販売時点管理システム」などと訳されることもある。一般にPOSレジと呼ばれるコンピュータ化されたレジスターはこの「POSシステム」の一部である。レジの歴史は意外と古く、日本においては明治33年(1897年)に横浜の貿易商である牛島商会がアメリカのナショナル・キャッシュ・レジスター社から輸入したのが最初とされている。同社は後にNCR社となり、現在でも百貨店を始めとして多くの小売業界でその製品が使用されている。POSレジはこれらレジスターとコンピュータを組み合わせ、商品を店頭で販売する毎に商品の販売情報を記録・集計する為の最初の入り口(インターフェース)となるものである。

POSレジで入力された情報は、オンラインでサーバ内のデータベースへ記録される。POSレジで収集できる情報は多岐にわたる。「商品情報」の他に、「購買金額」「時間帯」「店舗」「売場」「販売担当者」などが現金や金券で顧客が買物をした際に掴むことが出来る情報である。だが、これだけでは「誰が買ったのか」は解らない。そこでクレジットカード情報やポイントカード情報を組み合わせてみる。すると先ほどの情報に加えて「個人名」「性別」「年齢」「住所情報」「電話番号」「家族構成」などを得ることが出来る。すると最初の情報である「商品情報」から「商品種別」「ブランド」「サイズ」などが意味を持ち出す。個人が特定できればその顧客の嗜好や買物パターンを分析することが可能になる。これだけの情報を得ることができるなら、ある程度の規模をもつ企業であれば、ポイントバックやカード優待など安いものである。最近では「e-mailアドレス」もこれらに加えて良いかもしれない。

クレジットカードやポイントカードの入会時に「ご入会伝票」のような物へ「住所情報」や「電話番号」「家族構成」などを記入したことがある方も多いだろう。これらの情報もすぐさまデータ化されデータベースに取り込まれる。そしてそれらを利用して買物をすると小売側は上記のような情報を収集することができ、分析することが可能となる。こうした個人を特定して分析しマーケティングすることを「One To One マーケティング」と呼ぶ。One To Oneなどと呼べばなんとなく聞こえは良いが、買物を楽しんでいる際にこうした情報が自動的に集計されていると考えるとなかなか不気味ではある。

こうして収集された購買情報・顧客情報を元に前回紹介したRFMなどを利用して様々な切り口で顧客の階層化(セグメンテーション)を行う。セグメンテーションの過程がまさにCSMと呼ばれるのである。

これらの情報を利用してTVCFやチラシ・ダイレクトメールなどの宣伝活動、商品買い付け、仕入れなどのマーチャンダイジング(MD)をより効率化していくのである。POSシステムはそれらの入り口という点で小売システムの中で最も重要なシステムである。それ故にIT化の遅れている小売業では「まずPOSから」の導入が常識となっている。勿論上記のような情報系と呼ばれるシステム以外にもレジスターとして金銭の出納・集計・精算・営業日報の作成などさまざまな基本的な機能(基幹系と呼ぶ)もPOSシステムは支えている。

次回は集められた情報をどのように分析してその後の販売に生かすのかを筆者の知っている範囲で紹介してみたい。
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# by seagull_blade | 2004-06-08 13:20 | career
a0012892_194547.jpgここ4、5年ポイントカードという仕組みをよく耳にするようになってきた。大手家電量販店やレンタルビデオ、マイレージなどのポイントバックやキャッシュバックの優待を受けることが出来るアレである。また、特定のクレジットカードを利用すると割引優待が受けられるサービスもハウスカードなどを持っている百貨店などでよく見かける。利用している側としては一種の顧客還元の一つと考えている方が多いだろう。決して間違いではないが、ただそれだけのことではない。少し企業側の思惑について記してみたい。

「2:8の法則」という言葉をご存知だろうか。イタリアの経済学者パレート(Vilfredo Pareto 1848-1923)がパレートの法則として提唱した考え方である。マーケティング用語としてよく出てくるが、要するに「重要なものは僅かしかない」という考え方である。本来は所得分布を説明するもので、上位2割の所得者が全体の所得の8割を占めるという一種の経験則なのだが、現在では所得以外でも応用可能と考えられ様々な分野のコンサルタントや販売促進でも利用されている。

例えば、「ある企業の営業部門の成績を説明する場合、営業成績上位2割の人間が売上全体の8割を占めるが、仮にこの2割を別の部署に移動させたとしても残された営業部門でまた2:8の法則が働き、2割が成績を伸ばし売上全体の8割を占めてしまう。」などとまことしやかに語れる便利な言葉である。

流通業界、取分け小売業界においては「2:8の法則」は顧客の切り分けに多く用いられる。勿論「2割の顧客が全体の8割の売上を占める」という考え方である。そもそも経験則なのだから厳密には疑わしい部分があるが、ある程度の信憑性は持っていると考えられる。特に高額商品を扱う小売になればなるほどこの法則に支配される傾向があるといえる。この考え方に基いて企業は顧客分析を行う。これをCustomer Specific Marketing(CSM)と呼ぶ。顧客による売上貢献度から顧客のランクを決定し、それぞれの階層毎にアプローチの方法を変えることでより効率的に売上を上げようとする試みである。ではどうやって階層を分けていくのであろうか。

流通小売業界では古典的な切分指標としてRFMという基準を用いることが多い。Rはrecency : リーセンシーで、最近の購入であるかどうか。Fは frequency : フリークエンシーで、頻度はどうか。Mはmonetary-value : マニタリ・バリューで、購買金額がどうかということである。これらを例えばポイント制にして顧客ごとに設定し、その総和をランク付けすることで顧客の階層化分析を行うことが可能になる。また取扱商品や業種によって、RFMの内、それぞれの重要な項目に重み付けを行い(例えばそれぞれの通常最大値を5とし、重みを2とすると、3ポイントの顧客は5ポイント、5ポイントの顧客は7ポイントとなる)応用して分析する。つまりこれらの頻度が高ければ高いほどCSMにおける上位層とランクされるということである。

更にRFMはどの指標ポイントが高いかでどういう顧客なのか詳細に分析できるが、ここはマーケティングのブログではないので割愛させていただく。ご興味のある向きは「RFM」をキーワードにして検索していただくと山ほど引っかかる(Googleの日本語ページで凡そ3,800件)ので、参考にしていただきたい。

RFM指標に基いたCSM分析は上述したようにある程度古典的な手法であり、かつては膨大な顧客データを「大福帳」として帳面に付け、手計算や大雑把な経験と勘を用いて利用していたが、こうした分析がIT/コンピュータが得意とする分野であるのはすぐに想像できるであろう。データ入力さえ行えば、上記の計算システムはさほど複雑ではない為すぐに実現可能である。現在主流の顧客分析システムパッケージソフトではCSMをCRM(Customer Relationship Management:顧客関係性マネジメント※次回以降詳説)と絡めて販売していることが多い。それらは多くの機能を既に用意してあるのだが、導入時に必ず問題になることがある。それはどうやって顧客データ(個人データ・購買データetc)を入手・入力するのかという事である。

冒頭に記したポイントシステムやクレジットシステムはここに繋がってくる。ある程度の出血を覚悟してでも自動的に会員データが溜まり、加工可能な状態を現出することの出来るカードを利用したシステムはどうしても小売が欲しい情報なのだ。これらの集められた情報はCSMやRFMに使用されるだけでなく、様々な企業活動に使用される。次回からはこうしたデータを具体的な収集方法、更にどのように活用するかを概説してみたいと考えている。


※『革命と反動』と題してきた流通業界とITシリーズは今回より『小売とマキャベリズム』シリーズとして作成したいと考えているので宜しくお付き合い下さい。
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# by seagull_blade | 2004-06-04 19:46 | career
a0012892_134445.jpgIT革命という名のバブルが弾けて久しい。IT革命などと書いたが、それはやはり未知の技術に対する過度の期待とアメリカへのキャッチアップしなくてはという脅迫観念が生み出した流行であった。ITという言葉、コンピュータに対する理解がある程度一般化したことが「IT革命」における殆ど唯一の成果だったと筆者は考えている。

IT革命が仮に流行であろうとも、かなり巨額のシステム投資が(闇雲と言って良い程の感覚で)なされた。「ITガバナンス」という言葉がある。1999年頃から使われ始めた言葉で、一言で言えば「経営戦略に沿ったITを活用するメカニズムを企業内に持つ」ということである。便利かつ包括的な言葉で企業においてコンピュータ・システムを扱う際に出てくる問題は、純粋に技術的な問題を除いて、大抵この「ITガバナンス」というカテゴリに含まれてしまう。

ITをイット読んで森元首相が失笑を買ってしまった2000年から2001年にかけて国内におけるシステム投資額は「2000年度より増やす企業が57.6%に上った(日経マーケットアクセス調べ)」であった。翌年(2001年度)は44.1%となり減少傾向となっている。丁度、このあたりから「ITガバナンス」が人口に膾炙し始めた。言い換えれば「費用対効果」が果たして出るのかということが問題となってきたのだ。(但し、2007年問題等を睨み大企業を中心にIT投資はこの2年増加傾向にある)投資された巨額のIT予算が果たして効果を上げているのか、もっと言えば「何処に消えてしまったのか?」と考え始めたと言える。ここから一種の反動が始まった。キーワードはやはり「ITガバナンス」だろう。

多くの人材を抱える大企業はともかく、日本経済の中核を担う大多数の中小零細企業にとって回復基調にあるとはいえ、出来る限りのコスト削減を行い、生き残りを図るしかない状況となっている。こうした背景の中、経営者にとっては費用対効果が明確でないITは出来る限り避けなくてはならない投資と考えられているようだ。

一般に不況時には「3つのK」という削減可能な予算が真っ先に削られる。広告宣伝費・教育研修費・交際費がそれにあたる。筆者の勤め先もご多分にもれず、交際費など「何を言われるか恐ろしくて」総務や経理に申請など出来ない空気が出来上がっている。ITに対して理解を深めている暇などない(情報リテラシーの無い)経営者にとってみれば、IT投資も削減可能な予算の中に含めたくなるのは解りきったことである。確かにもはやITは企業インフラの一部であることが多く、もはやそう簡単に切り捨てるわけには行かない。だが、上述したように費用対効果(例えばROI)が見えにくいこと、さらに経営層にとっては決裁した際に予想していたよりもずっと金の掛かるものだということ等から、IT投資は控えめにとなっているようだ。良くある話だが、パソコンだけではなく、OSやソフトウェアのアップグレード、回線費用などランニングコストを多めに見積もっておかない限り、ひたすら追加予算が発生してしまう。また、簡単な(経営者にとっては)システムをSIベンダーに見積もらせたところすぐに数千万円から億単位になることもざらである。

流通業界においても事情は同じである。情報化が最も遅れた業界の一つではあるが、筆者のいる百貨店系に絞ってみると「情報システム部門」が存在しない百貨店は殆ど無い。どの百貨店においても情報システム部門は経営管理系の部門に近い位置にある。だが、CIO(Chief Information Officer)をおいている企業は少ないし、現在の経営層が情報システム部門をややもてあましているのが現状ではないだろうか。つまり、情報システム部門の挙げてくる問題や追加予算請求に対して、経営層は判断しきれずに二の足を踏んでいるという構図が出来上がっているのである。

こうしたことは真新しい指摘でもなんでもなく、ここ3・4年よく言われている話である。だがこうしたことが叫ばれつづけているということは、解決されていないというのが本当のところであろう。つまり専門家としての情報システム部門だけがITガバナンスにかかわり、経営層の目指す企業統治(コーポレート・ガバナンス)との整合性が取れていないということが、目下解決すべき最大の問題であると筆者は認識している。早い話が「そのIT投資は本当に必要なの?役に立つの?」という事を経営層が理解するのは難しいということである。

この問題は恐らく時間とともに解決されるだろう。経営層が入替り、多少なりともITに若い頃から触れている人間が主導権を握ればおのずから解消される。だが、そんな物を待ってしまっていては今ある会社の経営に深刻なダメージを受けるかもしれない。

筆者が考えるこの問題の解決方法だが、大企業・中小企業を問わず、SIベンダーからある程度経験を積んだ若手の引き抜きや中途採用を行い、情報システム部門に回すのではなくまず現場(ライン)に放り込んでみるという手は如何だろうか。経営者にはSIベンダーのような給料を出せない、或いはシステム屋などモノを売る現場、作る現場では役に立たないだろうという心配があるであろう。だが、さほど心配は要らないと筆者は考える。まず給与面だがSIベンダーの多くははっきりと薄給である。確かに大手SIベンダーなどでは20代で1000万円近い年収を得ているものもいる。だがそれは例外で、多くの場合一般的な企業と同じレベルである。また、SIベンダーの中でも実際の開発作業(プログラミング)を行う中小零細企業ではかなり低い賃金で働いているプログラマーも多い。また、後者については「IT系の人間はコミュニケーション能力が低い」という偏見だろう。確かにこれは当たっていなくも無い。筆者の周囲にも「こりゃ客先には出せないな」という人間は少なくない。だが、どちらかといえば実際の業務まわりや顧客との折衝に興味はあるがシステム開発部門だから機会がないという人間の方がむしろ多くいるように筆者には思える。ある程度の待遇を保証して「商売の現場」での修行の場を提供してもらえるならば、経験してみたいと考えている若手は決して少なくないであろう。

こうして獲得し「修行」させた人間を情報システム部門や経営部門に引っ張り込むのだ。そこでまた経営層の考え方を理解した時、彼等・彼女等はプログラマやSEからプランナや上級SEとなっているのではないか。そしてSIベンダーはこうした人間をまた再獲得すればよい。商売とITを理解している貴重な人材となっていることであろう。特に中小企業で働いていた者は大企業には無い強烈なコスト意識をもつこともできる。彼等・彼女等は真の意味での「ITガバナンス」を行っていける可能性があるだろう。

筆者の意見はとても楽観的であることは承知している。こうしたことがそう簡単に成功したり、一般化したりするとは思えない。だが、挑戦してみる価値は充分にあるのではないだろうか。ITコンサルタントに分析を依頼するよりもリスクは高いがかなり安価に実行可能であるし、これからは人の流動化は避けられない課題であるのだから。
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# by seagull_blade | 2004-06-02 13:45 | career

シャーロキアン。

a0012892_15326.jpg去年の年末、新潮文庫刊のシャーロック・ホームズシリーズを片端から読んでいた。シャーロック・ホームズはNHKのTVドラマでたまに観ていたが(先日、俳優の名が「ジェレミー・ブレット」であること、製作がグラナダTVであることを教えていただいた)、ミステリに余り興味が無かったからかさほど関心が無かったと思う。確か広川太一郎あたりのアテレコで犬のホームズアニメも放映していたのも手伝って勝手に「子供向け」と思っていた。(広川太一郎のアテレコは今思えばなかなかはまり役だったとは思うが)

社会人となってからミステリを読み始めた。阿刀田高・宮部みゆき・京極夏彦・大沢在昌からはじまって、高村薫・乃波アサ・森博嗣etc・・・。(まだまだ初心者)
さてお次はと本屋で物色し、以前から気になっていた「QED」シリーズを読んでみることに。著者は高田崇史(たかだたかし)。メジャーなのでご存知の向きには蛇足だが、博学強記の薬剤師が民俗学に絡んだ事件を解決していくというもので、京極夏彦の京極堂シリーズに微妙に近いが「QED」シリーズの方がより洒脱であると思う。

早速買い込んで当時出版されていたシリーズをあっという間に読破してしまった。その中で私が最も唸らせられたのは「QED-ベーカー街の問題」というシリーズ3冊目である。ネタ晴らしをしても仕方が無いので詳細は省略させていただくが、民俗学的なテーマの多いこのシリーズでシャーロック・ホームズを取り上げたこの巻は異彩を放っていた。この本を通して「シャーロキアン」なる言葉を知った不勉強な私だが、ともかくホームズ譚に触れてみるべく(そんな大げさなことではないのだが・・・)、新潮文庫でまず「緋色の研究」を購入してみた。実は中学生時分に購入したことがあると思うのだが、なんとなく読めずどこかに行ってしまった。なので余り期待せず読み始めたのだが、気が付いたら聖典(カノン)とシャーロキアンの間で言われているホームズ譚は一気に読み終えてしまった。だんだんと自分の中のホームズに形が出来上がり、感情を持つようになり読みながらホームズが登場すると一種安心感が出てくるようになる。本当に魅力的なキャラクターだ。

シャーロキアンとはシャーロックホームズ・ファン/マニアの総称で世界中にシャーロキアン・クラブがあるらしい。「QED」の受け売りだが、中でも「硬質のシャーロキアン」達はホームズを実在の人物同様に捉え研究しているとのこと。ホームズ譚はアガサ・クリスティが指摘している通り矛盾も多いのだが「硬質の」方たちは、「ワトソン博士の書き間違いだ」としたり、「何か隠された意味があるのではないか」と研究したりしている。

シャーロック・ホームズシリーズを読んで「シャーロキアン」達の気持ちが少しだけわかった。「QED-ベーカー街の問題」で主人公がフィクションを研究してどうするのかという問いに対して「シャーロキアン達は虹を追っているんだよ」と答えたセリフがとても洒落ていた。QEDとホームズは、私にとって幸福な読書の連鎖であった。
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# by seagull_blade | 2004-05-31 15:04 | reading lamp

気楽に生きる権利。

a0012892_145015.gif新聞やWEBを読んだり、テレビやラジオを見聞きしていると、かつてどこかで読んだ「気楽に生きる権利」というのは我々日本人にはなじまないなと感じる。

「気楽に生きる権利」奇異な言葉だが、要するに、難しいことは偉い人や頭の良い人に任せておいて(権限を委任し)、大衆は気楽に生きていくことができる(権利を有する)ということ。とても無責任に感じるが、この言葉を初めて知った学生時代にはちょっとしたショックを受けた。

筆者の学生時代はバブル崩壊後数年で就職氷河期などと言われた頃であったためか、バブル期的な超お気楽学生は少なかった。とは言え大抵の学生は暇に任せてバイトやら色恋やらに熱中していたし、筆者もありがたいことにバンド・バイト・色恋に夢中であった。それでも、やはり青臭い学生であるから小難しい本を読んでは議論をしてみたり、悲惨なニュースを見ては不幸を一人で抱え込んだ気になっていたものだ。デキスギ君よろしく勉学に励んではいないが、まあそれなりに真面目に生きていた頃、「気楽に生きる権利」という言葉に出会ったのでショックを受けたのだろう。

最初は反感をおぼえたが、すぐにしたり顔で友人等に話してみたりしたと思う。「欧米では一部のエリートだけがノーブレス・オブリージュを果たして、多くの人には気楽に生きる権利があるんだよ」とかなんとか。大衆は別段文化的である必要もないし、自分の快楽を追い求めればそれでいいのだと。そしてエリート達は特権を付与する代わりに難しい事柄を解決する義務がある。だが筆者は微妙に違和感を感じていた。

その後、イギリスへ何度か旅行する機会があった。数あるヨーロッパ諸国でも最もクラス(日本語で「階級」とすると微妙に意味が違うと思う)が意識される国である。ロンドンのビュッフェ形式のパブで昼飯を食べていると、おかしなことに気が付いた。トレイに食事を載せて自席まで運ぶ。ここまでは誰もが同じなのだが、テーブル毎に全員トレイから、食器をテーブルに移して食事するグループとそのままトレイから食べるグループにきれいに分かれているのだ。そしてそれはそのまま彼等の身なりに反映していた。即ち、前者はスーツ或いはカジュアルであってもきちんとしているが、後者は何処となく汚らしく、英語の下手な筆者でも言葉遣いが荒い事ぐらいは解った。恐らく卑猥な話でもしているのだろう、下卑た笑いが聞こえ、すぐ隣のテーブルは明らかにランチを兼ねた会議をしている。「なるほど、これがCLASSというものか。確かにお互いが全く相容れない雰囲気だ。」筆者はそんな風に考えながら、トレイから食器を下ろして食べていた。我々日本人にはクラスなど何の関係もないが宿泊先が縁があってオックスフォード大学の客員教授寮だったのだ。もしここでトレイのまま食事をしたら、クラスが違うと思われ相手にされなくなる可能性もある。

「気楽に生きる権利」とは、かくも明確な区別を前提にしている概念なのだ。そこまで考えた時、筆者の違和感の正体がなんとなく解った。つまり、こうしたクラスを平然と受け入れる国柄であれば、「エリート」の概念に悪いニュアンスは含まれないであろう。だが、世間という一種の神格に縛られ、村八分という言葉を生み出してしまう我々には、実際には「気楽に生き」ているにもかかわらず、世間という和を乱さないようにする(世間という名の神の怒りをかわない)為に「エリート」と「大衆」という分け方を嫌う。エリートは即ち特権的でありマレビトであり、必要悪としてしか我々は認識できないのではないだろうか。もっと有体に言えば「出る杭は打たれる」国柄に「気楽に生きる権利」は生み出せないということである。少なくとも筆者はイギリス社会のクラスが強調される面には馴染めなかった。筆者がエリートでないということもあるだろうが、では日本の高級官僚達がクラス社会を歓迎するかといえばそうは思えない。自分たちが支配階級であることを巧みに隠しつつ維持していくほうを選ぶだろうと筆者には思える。

我々は話題となるあらゆる(社会)問題に関心を払い、一家言を持っていなくてはならないと考える傾向にあるようだ。それは恐らく我々の平均的なレベルを持上げる効果がある。だが、誰もが口出しするが故に、思い切ったことも出来ないし、「気楽に生きる権利」も生み出さない。どちらが良いも悪いも無いが、近頃肩に力の入りすぎた報道や評論が目立つ気がする。どうにかしてもう少し脱力できないだろうか。
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# by seagull_blade | 2004-05-30 14:51 | philosophism
a0012892_135034.jpgよく本を一冊もってBARや居酒屋に足を運ぶ。読書のスペースとして酒場はそんなに悪くないと思う。私の場合は、「活字が読めなくなったら引き上げ時」で飲みながら読書している。そんな中で興味深い本などを紹介するカテゴリを、このページを読んでいただく読者諸兄姉へ多少の参考になれば、と考え「reading lamp」を追加した。
(一人称を「筆者」とすると混乱するので「reading lamp」では「私」とします。)

学生時代、評論めいたものは散々読み漁ったので最近はすっかり小説などが多かったのだが、このブログサービスで利用させて頂いているEXCITEジャパンの「週間エキサイト-エキニュー総研-」で小浜逸郎氏のインタビューが紹介されており、読んでみたいと考えていた。先日紀伊国屋書店で見つけたので早速購入し、居酒屋へ。

「誠実な男性論」というのが第一の感想。私は不勉強のため、ジェンダー系評論は正直「下らない」と一刀両断したくなる文章しか読んだことが無かった。だが小浜氏の論考は飛躍も無く、私の皺の少ない脳でも十分に分析やその伝えたいところを理解することが出来た。

フィリップ・マーロウではないが「男は強くなければ・やさしくなければ」という一種の呪縛に私は囚われている。かつて読んだジェンダー関連の書籍では「そのような呪縛は幻想だ!克服しなくてはならない。」という主張が大勢であった。

別段、私はマッチョ的な男性像を正としている訳ではない。しかし、ある程度の「男らしさ」や「大人としての振る舞い」は、世の中或いは女性から要請されていると思う。また、理由は判然としないが、男らしさを発揮することは「正しい」という感覚が私にはある。
そういったもやもやとした「不安」に小浜氏はそれなりの形を与えてくれる。

私が思う本書の白眉は、竹中英人氏の『男は虐げられている』を引用してそれに対する反駁、むしろ大人として諭す部分だ。竹中氏は20代らしいのだが、「恋愛は女性が男性から搾取するシステム」と主張している。私自身たいしてもてないし、振られてばかりだからこうした主張になるのはわからないではない。凡そ、20代での恋愛はバブル期に流行った「アッシー・メッシー」よろしくそのような形を取りがちだ。竹中氏の主張はそうした中から出てきた恨み辛みとも取れる。これに対して小浜氏は「そういう構造になっているからだとしか言いようがないのである。要するに、これはある程度まではしょうがないとあきらめるしかないのだ。」と回答している。そうした構造を男の側が支えている部分は決して小さいものではないし、それを忘れるわけには行かない。と、小浜氏は主張しておられる。

この書評めいたもので全てを引用するわけには行かないから、読んでいただくしかないのだが、小浜氏の回答は十分に誠実である。私もこの説明を読んで納得できた。小浜氏の主張は「父権主義・男根主義」というテーゼと「フェミニズム・ジェンダーフリー」というアンチテーゼに対して「ジンテーゼ」を与えようとする試みだと私は思う。そうすることでしかヒステリックに叫んだり、陰湿にいじけて見せたりする惨めな態度を改めることはできないのではないだろうか。我々「男」は。
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第1章 「男らしさ」は必要なくなったか
第2章 いつ「男」になるのか
第3章 男にとって恋とはなにか
第4章 「中年」と「父親」をどう乗り切るか
結論に代えて―体験的視点から
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# by seagull_blade | 2004-05-27 13:51 | reading lamp
a0012892_175424.gif写真のベースはIbanez社製ATKというエレクトリック・ベース。筆者が主に弾いているベースである。といっても今ではすっかり手慰み用と化しているので、だいぶ拗ねているかもしれない。Ibanez社の楽器は10年程前、へヴィメタル全盛期に大ヒットし、多くのギター小僧が使用していた。金髪で皮ジャンのミュージシャンが弾いていたとんがったギターを覚えておいでの方もいらっしゃるだろう。ATKシリーズは同社の製品の中では目立って方向の異なる楽器である。¥50,000-程度の楽器としては十分な音を出せ、見た目も保守的な外見をしている。もっとも筆者の腕では高級な楽器を弾いたところで変わらないが。モコモコとした音を作っても芯が残る音になるあたりとても気に入っている。

筆者がベースを弾き始めて11年。歴だけは随分と長い。高校の学園祭を皮切りにライブもそれなりに行った。Guns'N Roses・Motley Crue・BonJovi・QUEEN・MrBIG・EXTREAM、あるいはMadonnaやらNoDoubt、果てはスピッツや椎名林檎・BONNIEPINK迄。こうしてみると本当に何でも屋的に曲を弾いてきたようだ。今の(サラリーマンとしての)仕事振りと変わらないような気がする。

この先ミュージシャンとして生きる気は更々無いので、別にかまわないのだがベースを手にとって最初の1年間だけ進歩して、初心者を抜け出した。だがそれ以降、一向に上達しない。(このあたりも社会人としての成長のようだ)とりあえず弾ける。だがこの先になかなか到達できない。今でこそさっぱりだが、学生時代はそれなりに練習したような気がするのだが。10年間、まさに十年一日の如くである。

だが最近はこの「ちょっと弾ける」という状態でよいのではないかと思い始めている。何もプロとして生きるわけではない。ただほんの少し余技として楽器を弾く。すると少しだけ弾かない人よりも音楽を楽しむことが出来る。プロのミュージシャンの凄さも少しわかる。ベーシストだけではない。ピアニストやヴァイオリニストも楽器を弾かない人より少しだけ尊敬することが出来る。正確なリズム、間違うことの無いメロディ。それを実現するために相当の苦労が必要なこと。それを少しだけ知ることが出来る。

筆者の全く上達しない10年間もこう考えると多少は意味が見出せる・・・ような気がする。
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# by seagull_blade | 2004-05-24 17:55 | bassplay

女優と俳優と電通マン。

a0012892_141815.jpg先日、釜飯屋で女優・俳優×2と食事をしていた。なぜ一介のサラリーマン(SE)である筆者がそんなメンバーで食事をしていたのか。
居合術には剣術も含まれる。「ラストサムライ」や「たそがれ清兵衛」以降、所謂チャンバラではなく、ある程度まっとうな剣術が注目されるようになった。同じ予定調和でもチャンバラと剣術ではかなり迫力が違ってくる。本来舞台で行われたチャンバラでは現代のリアルな映画にそぐわなくなってきているのであろう。尤も、筆者はリアルであればよいと思っているわけではないが。そんなわけで、居合術に付随した剣術はリアルな殺陣として、それなりに認知されてきているらしく筆者の属するところにも若手の俳優や女優が出入りしている。稽古のあとで俳優Iくんに誘われ食事に行った。
許可を取ったわけではないので名前は記さない。以下、釜飯屋での会話。
俳優I:「かわいいでしょ。いま一押しの子ですよ。」
筆者:「俺に売り込んでどうする。大体、マネージャじゃなくてI君も俳優じゃない?」
俳優I:「いやいや、俺何でもやるっすから」
筆者:「大体先輩然としているけど、どっちが年上なの?」
女優T:「23歳です。」
俳優I:「同い年ですよ~」
俳優T:「・・・俺も同い年だよ」(本当は32)
筆者:「・・・それなら俺も同い年だ。」(本当は29)
俳優T:「この話題はやめよう。大体Iは26だろ。」
俳優A:「いや25っす」
筆者:「かわんねえよ。Tさんは出身どこなの?」
女優T:「東京です。自由が丘」
筆者:「へえ。」
筆者の正面に座ったTさんはとても目の大きい美人。ここまでまじまじと女優の顔を見たことは無かったが、なるほど女優というのは美しいものだなと実感した。売り方にもよるだろうが、商売道具となる顔とはこういうものなのだ。だが、正直目の大きさにちょっと圧倒される。ブラウン管を通すと別に気にならないのだが、目の当たりにすると大きな瞳が少し異様なくらいだ。だが、まだ有名とは言えない彼女は偶々美しく産まれついただけである。今後どうなるかは彼女次第なのだろう。
俳優Iの携帯電話へ引っ切り無しに着信がある。
俳優I:「(着信音♪)お疲れさまっす!(・・・席を立ち外へ)」
俳優I:「(戻ってきて)○○さんからだよ。すぐ切れた。」
俳優I:「(着信音♪)お疲れさまっす!(・・・席を立ち外へ)」
俳優I:「(戻ってきて)やっぱり切れる。電波悪いのかな」
俳優T:「良いから飯食えよ。」
だがその後もなんどか電話があり、Iくんは折り返しのコールを入れるのだが結局つながらない。だがIくんは「もういいっすよ」とか言いながら物凄く電話を気にしている。
女優T:「気にしすぎだよ。○○さんはもう電話したことすらわすれてるって。」
俳優I:「そうだよな。うん。そうだ。」
しかし、食べながら何度も電話している。一寸この世界の大変さを垣間見る思いだ。Iくんはさっきの電話が何か自分への仕事につながるかもしれないという思いでいっぱいなのだ。或いは俳優や女優にとって重要なポストにいる○○さんの機嫌を気にしているのかもしれない。筆者がここまで電話を気にするのは付き合っている女性との別れ際くらいだ。こうしたIくんをみていると「月収10万っすよ。きついですよ。」と笑う彼をとても応援したくなる。彼とていくつかの映画に出演し、今後もあるそれなりに知られた番組の出演予定が決まっているのだ。それにしてこの扱いとは。フリーで食べていくのはとんでもないことだなとサラリーマンの筆者はぼんやり考えていた。
彼等はセリフ合わせのため台本を覚えるということで一滴もアルコールを口にしなかったので、彼等と別れ、筆者は別の店へ飲みに行くことにした。前にも記したSURというバーである。

「ギムレットにはまだ早すぎるね。」フィリップ・マーロウは言った。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ(THE LONG GOODBYE)』の一節だ。「ジンとローズのライムジュースを半々に。」などとは筆者は思わないが、いろいろな物語がこびりついたギムレットは筆者がわりと注文するカクテルである。ドライ・ジン3/4にライムジュース1/4を加え、氷とともにシェイクする。アルコールはきついがマティーニほどではない。少しづつ酔っ払うには最適なカクテルだと思う。台風の日だったので空いているかと思いきや店は満席。バーテンもマスターも大忙しだ。読みさしの本を読み耽っていると、流石にみな帰りは早く、マスターに声をかけられたとき、客は筆者と若いサラリーマン風の男性だけになっていた。
「それなんです?」「ああ、実は日本刀です」「え?!」「居合を習っているんですよ」「見せてもらっていいですか?」「もちろん。どうぞ。」
ここでもう一人の男性が話しに割り込んできた。「あ、私剣道やっていたんですよ。私にも見せてもらっていいですか?」
その後、若い女性には珍しく司馬遼太郎ファンというバーテンを巻き込んで延々と居合談義。その中で冒頭に記したような「師範が殺陣も指導するから俳優や女優も出入りする」という話が出た。男性が「何処の事務所なんです?その方達。」と訊いてきたので「○○○(事務所名)ですよ」と答えると彼は知っていた。筆者は別に芸能界に詳しいわけではないが、普通は事務所の名前なんて知らないだろうと思い、なぜ知っているのか訊ねてみると「電通関係なんですよ」とのお答え。なるほど、それならば知っていてもおかしくは無い。「居合を是非やってみたい!」と言い出し、バーテンに「動機が不純なんじゃないの?」と突っ込まれていたが、筆者に名刺をくれた。(翌日、師範のメールアドレスを案内した)
女優と俳優と電通マン。筆者とは縁もゆかりも無い人々と食事したり、酒を飲んだり。なかなか味な一日だった。結局筆者はギムレットに飲まれ一人閉店まで。翌日も仕事なのに。「やれやれ、ギムレットには早すぎるね。俺も。」

出会いとはおかしな物である。
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# by seagull_blade | 2004-05-23 14:19 | bizarro life
a0012892_1745.jpg語り尽くされた感のあるSTINGの「Englishman In New York」。筆者のもつiPodではかなりヘビーローテーションで再生されている。これほど知られている楽曲で何度聴いたか解らないが筆者の中では陳腐化しない。JAZZの雰囲気満点だがビートは裏打ちでミドルテンポ。内容はご存知の通りイギリス人がアメリカを皮肉るという物だ。たくさんのパロディが作られた曲でもありShine headの「Jamaican in New York」あたりは結構ヒットした。当てこすりの当てこすりというパロディが作られてしまうあたりが何とも「イギリス人」なところの一つではあるまいか。

「A gentleman will walk but never run」という一節が出てくる。お気に入りの一節だ。「紳士(たるもの)は歩きこそすれ決して走らない」とでも訳せばよいのだろう。原意は「実力主義・市場経済」という名の「無秩序な弱肉強食社会」であるアメリカへの皮肉である。何処へ行ってもそう簡単に郷に従うことを良しとしない英国人の気概がこの一節を書かせたのではないか。

イギリスへはどうした訳か縁があって何度か足を運んだことがある。また何故か知り合いも少しいる。彼等の特徴は何処へ行ってもスタイルを変えないということだ。

いつも勝手に連想するのだが、何かの本で読んだ幕末から昭和初期にかけて生きた女性へのインタビューの中で「それは立派なものでしたよ。常に背筋を伸ばして、決して走ったりせず堂々としてました。」と侍がどんなものであったかを答えていたことを思い出す。

悔しいがヨーロッパに現在でもかなわないと考えてしまうのがこの点だ。ブリティッシュ・ジェントルマンがイギリスの一つの理想形であり、イギリスでなくとも、あの陽気なイタリアにさえ「ジェントルウォーミニ」という言葉があり、今でも決して悪いニュアンスの言葉ではない。言わば、自らを理性で規制することで誇りを維持している人々がおり、また彼・彼女等が一定の尊敬を集めていることだ。日本において「エリート」は侮蔑の意味を含んでいるが、ヨーロッパにおいては悪い意味はないように。

最近、この曲の皮肉の対象が日本も含んでいる気がしてならない。
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# by seagull_blade | 2004-05-20 17:05 | musique

部下。

a0012892_1331.jpgサラリーマン歴6年。まだまだ若造であるが、それでも学生時代や新入社員時に比べると新鮮な経験をすることが減ってきた。ある程度の経験を積んできたと言うことではあろうが、たまには新しい経験をしたいと思うことが多い。

今のところ、筆者は流通系IT業界のSI(システムインテグレータ)企業で新卒から働いてきたが、OJT(On the Job Training)のトレーナーも含めて、部下あるいは自分の下がついたことはなかった。この2年はプロジェクトリーダーという立場で仕事をしてきたが、プロジェクトメンバーは常に外注先という状態であった。学生時代を思い返してみても、長期(2年半)で通っていた飲食店のアルバイトも「トレーナー」になることはなかった。同じ時期にバイトを始めた仲間がトレーナーとなっても筆者はならなかった。当時の責任者に「なぜトレーナーにしないのか」と尋ねたところ、「お前が教えるとお前の言うことしか聴かないバイトが出来上がりそうだから」と答えられた。社会人になってからも、外注(協力会社)とともに仕事をする部署へ配属され、呼称だけは「プロジェクトメンバー(PT)」⇒「プロジェクトリーダー(PL)」となったが、PLとなってからも社内では一人チームと呼ばれていた。お陰で一人で何でもこなさざるを得ず、成長させてもらったとは思うが、「人を育てる」(不遜かつ大仰で好きな言葉ではないが)経験だけはなかった。

現在(2004年5月)行っているプロジェクトが佳境に入り、現在のメンバーだけでは物理的に足りないことが容易予想できたので、見積もり段階から居もしない「メンバー2名分」を予算内に入れつつ、「人よこせ運動」を社内の各方面に行っていたところ、昨年の11月に一人(こちらは中途入社のベテランSE)追加され、今月(2004年5月)に初の部下を頂いた。部下といってもプロジェクトメンバーなのだが、筆者の下であることは間違いない。

部下を持ったことのない筆者にとって初めての経験である。もっとも新入社員では無いので一から教える必要は無いのだがそれでも現在のプロジェクト状況の説明や役割の決定、賞与考課目標の相談などすべきことは多い。しかし、ある意味で停滞していた筆者の状況を打開する物として負担よりも「期待」や「張合い」の方が大きいように思う。

だが、何分初体験なので立ち位置が難しい。筆者はもともと半営業のSEなので人と会う・話すということに対しては苦手意識はない。むしろ好きなほうなのだが、いかんせん社内の部下に対してどう振舞うべきか、どのようにして使いつつ持てる能力を引き出すか、はたまた、そんなことを考えすぎて「保護者」になっても仕方が無いし・・・という煩悶の日々である。外注先のメンバーなら「金の切れ目が縁の切れ目」でドライに対応可能なのだが。こうなるとバイト時代の責任者の言葉が思い出されて、微妙に自信が持てないものである。。

部下に対する立ち位置。どなたかコツがあったらご教示いただきたい。経験を積むしかないのであろうが。

(「流通とIT」を読まれたい方、申し訳ございません。もう少々お待ちください。)
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# by seagull_blade | 2004-05-14 13:04 | career

ビリヤード事始。

a0012892_204447.jpg折角、作っておきながら全く投稿していないカテゴリがあるのはいい加減みっともないと考え始め、ビリヤードについて少し書いてみたい。因みに「Aristocrat of Sports」(スポーツの貴族)というのがビリヤードの英訳で最初にヒットした。貴族がはじめたからなのか、語源は少し調べてみたが、よくわからない。

一番最初の記事「20の質問」で趣味にビリヤードと記載したが、はっきり素人である。というより下手である。ビギナーである。ではなぜ趣味に記載したのかといえば、これも記事にしたが、六本木で友人とプレイした際に腕の違いを見せつけられ非常に悔しかったからである。

敗れた挙句に明け方までその友人をコーチとして付き合わせた著者は、まずWEBで参考になりそうなページを探してみることにした。同好会等かなりあったが、「PAOさんの『Billiard Paostyle』」
http://www.paostyle.tv/billiard/index.html
を発見し、とりあえず読み進めてみる。これがなんともわかり易く、ソフトな語り口でありながらストイックに練習している事が伝わってくるWEBページ。なにしろ毎日の練習記録を載せている。ここまではなかなか出来るものではない。

筆者はかなり影響されやすいタイプである。このときも、「ひとつB級になったる!」とすぐに影響されてしまった。挙句の果てに丁度このブログを開設するタイミングだったので、「初志貫徹!!カテゴリに入れて記録を残す!」と考えてしまい、さっぱり記事の投稿がないカテゴリとなってしまった。

さて、完全に読者諸兄姉には「面白くない」カテゴリとなってしまう可能性の高い「Aristocrat of Sports」だが、筆者としても友人に勝利するまでは練習するつもりなので稀に記事を見かけた際には「どれどれ多少は上手くなったのか?」と軽く読み飛ばしていただきたいと願う次第。

まずはマイキューでも買おうかなあ…
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# by seagull_blade | 2004-05-07 20:45 | aristocrat of sports

幻想と妄想

a0012892_155240.jpg中東への関心が非常に高まっている昨今、百花繚乱というか百家鳴動の様相でインターネットも含めたメディアは情報を提供し、評論を展開している。どのような形であれ、他国に関心を持ち、考えることは有益なことであろう。以下の文章もどうかそのように捉えていただき、不遜かも知れないが、読者諸兄姉の考えるヒントとなれば望外の喜びである。

話が半世紀以上前に飛ぶのだが、旧日本軍、とりわけ帝国陸軍における問題について少し書いてみようかと思う。さて、太平洋戦争緒戦から中盤にかけての1942年1月、旧日本軍帝国陸軍はフィリピンへ侵攻した。当時、マスメディアは所謂戦意高揚記事を書き連ね、日本国民も「八紘一宇」「東亜解放」という旗印を半ば本気で信じていた時代である。ご存知の方には蛇足であるが「八紘一宇」とは世界は一つ、取分けアジアは一つであり、日本はその盟主であるという考え方であり、「東亜解放」とは米英独仏に代表される列強に植民地支配された東アジアを開放し、白人支配を脱すという考え方である。勿論、その先に「大東亜共栄圏」という一種のブロック経済圏を確立し、その盟主の座に日本が座るというねらいがあった。

フィリピンへの侵攻も本音は石油・ボーキサイトなどの資源確保にあったものの以上のような建前で実行されたものであった。このような所謂「解放者」という自己規定の元、フィリピンや東南アジア諸国を一時的にせよ支配下においた帝国陸軍軍人はどうやらこのように考えていたようである。『我々は白人の圧政からアジア人を解放する解放者である。従って、彼等(フィリピン人)を含めた東南アジア人は我々を歓迎するはずである』と。

勿論、現実はそんな歓迎は受けなかった。まず、大体において日本人は統治すべき対象の国についてどれほどの知識があったのだろう。例えば、フィリピンの公用語は英語だが、一般的にはタガログ語である。またフィリピンの旧宗主国は反宗教改革の最右翼スペインであり宗教は強烈なカソリックである。だが当時の陸軍はこれらのことを考えなかった。果たして、タガログ語を話せるスタッフはどれほどいたのか?恐らく殆ど居なかったのではあるまいか。統治・占領にせよ援助・支援にせよ、人間関係にせよ、相手についてなにも知らないまま係わり合いを持ったところでなすべきことが上手くいくということは殆ど無い。しかし、帝国陸軍はフィリピン人や東南アジア人を「アジア人」という何処にも存在しない幻想でくくり、(人種的・地域的に存在する)アジア人とはこういうものだという「思い込み」で「知っている」と自己規定してしまった。その結果はというと、自分たち(日本人)が思っている「アジア人」の幻想との差違を相手(フィリピン人)に発見すると、「所詮、ピリ公(フィリピン人の蔑称)なんざアジア人じゃねえ」などと彼等を「劣れるアジア人」あるいは「日本人になる前段階のアジア人」と規定してしまい、全てが空回りしている状況の原因をつかむことは出来なかった。当然、フィリピン人は「アジア人」などではなく「フィリピン人」であり、日本人の幻想の中にいる「アジア人」など何処にも存在しなかったのだが。

筆者は中東について殆ど語ることはできない。学生時代に中東の思想史やアラビア語を学んだことは学んだが、中東を旅したことも無いし、イスラム教徒の友人がいる訳でもない。それは「知っている」というレベルではあるまい。知らないことは知らないと言い切らない限り、旧帝国陸軍が陥った「知っていると自己規定する」妄想にはまってしまう。「半世紀前の日本人は愚かだった」などということは出来ない。これも同じ妄想にはまり込んでしまう。

日本人である筆者、否、余人は知らず、筆者はついつい相手も自分と同じように感じ、考えるという傾向がある。各種メディアにおける中東の報道もなんとなく同じ欠点を持っているように筆者には思える。「知っていると自己規定する」妄想こそ、まさに「いつか来た道」ではないかと思えてならない。タカ派もハト派も例外なく。
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# by seagull_blade | 2004-05-03 15:53 | philosophism
a0012892_13316.jpg少し前に『ファム・ファタール』(femme fatale)という映画があった。ブライアン・デ・パルマが監督し、豪華な宝石や衣装が話題となったFilmだった。「蛇のビスチェ」などとい「エロティシズムと悪趣味」「衣装と宝飾」の境にありそうな映像を覚えている方も多いかもしれない。

「femme fatale」という言葉がボウイーの楽曲にも登場する。またしてもボウイーか!と思われる向きもあるだろうが、お付き合い頂きたい。

1975年のアルバム『ZIGGY STARTDUST』に収録されたこの曲「LADY STARDUST」はボウイーの曲の中でも知られた曲であろう。第一興商だったかのTVCFでも使用されていた。

彼の持つデカダンスな雰囲気と相反する真剣さを無理なく調和させ、日本人好みのやさしいメロディラインが印象的な曲だ。

イントロはピアノで始まる。ヴォーカル・ピアノ・ベース・ドラムだけだろう。詞の内容は「LADY STARDUST」というバンドを歌ったものに取れる。相変わらず意味深で何とも解りにくいのだが・・・
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And lady stardust sang his songs
Of darkness and disgrace

そして レディ・スターダストは彼の暗闇と恥辱の歌を唄う。
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なんのことだろう。LADY STARTDUSTは男性なのか?バンドの名前なのか?それともその名の通り女性なのだろうか?このあたりがボウイーの上手なところだ。曖昧にして聴くほうの想像力を刺激する。
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And he was alright, the band was all together
Yes he was alright, the song went on forever
And he was awful nice
Really quite out of sight
And he sang all night long
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やはりはっきり男性なのだ。「彼はalrightだった」のだから。
--
Femme fatales emerged from shadows
To watch this creature fair

Femme fatalesは神の前に等しい被造物を見に
影より現れた・・・
--
サビのあと2回目のAメロでFemme fatalesは登場する。なかなか難解な歌詞だ。運命の女と訳されることも多いがどちらかと言えば「妖婦」「傾城の美女」のようなニュアンスの方が強いこのフランス語をどう捉えればいいのだろう。

筆者はこのように妄想してみた。LADY STARDUSTという男性ボーカルのバンドが演奏をはじめると「LADY STARDUST」という淑女であり妖婦が音楽の中に立ち現れるのだと。唄っている間だけ現れる全てを魅了せずにはおかない美女。彼女は等しくその音楽を聴いている物を魅惑し、酔わせる。曲が終われば何処にもいない。しかし、オーディエンスはその存在を確信しているのだ。

良い音楽とはそのようなものかもしれない。と思う。
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# by seagull_blade | 2004-04-30 13:32 | musique

松風。

a0012892_20138.jpg何のことだか解らないタイトルだが「水鴎流居合術」の形名の一つである。最も基本的な形の一つであり、恐らく「居合」といわれて想像される動きの代表格であろう。静かに一歩踏み出し、鯉口を切り(鍔を左手親指で持上げ、鞘から抜けやすくし)、突然素早い動きで抜刀しそのまま横一文字に切付け、更に上段から真向に振り下ろす。血振り(時代劇の主人公が鞘に収める前に行う動作)、納刀。

ただこれだけの動作なのだが、難しい。まずは抜刀をスムーズに行わなくてはいけない。筆者が使用しているのは「居合刀」と呼ばれる模造刀である。これは刀身以外は真剣と同様の作りになっており、重さも真剣同様である。勿論、刃付けはできないが刀身はそれなりの合金で作成されており、ぱっと見て真剣との区別はつかない。これを帯刀してある状態から一気に引き抜くのだが、鞘引きと呼ばれる、鞘を左手で後ろに回す動作を同時に行わないとまず抜くことができない。更に抜くだけでなくそのまま横一文字に相手の(勿論仮想敵。ほぼ自分と同じ体格の敵を想定する)首筋へ切りつけるのだが、斜め左下から抜いて肩の高さで横一文字に振るというのが想像以上に難しい。

また時代劇などを注意して見ていると鞘から刀が引き抜かれた(「鞘走り」という)際に刀身が鞘に擦れる音がする。結構格好いいのだが、これはNG。鞘からは音も無く引き抜かなくてはならない。師範によると「夜や暗闇で敵と戦う場合、音はこちらの位置を知らせてしまう。それに鞘も痛めてしまって良いことは何も無い。」ところが、日本刀には緩やかな反りがついており、これを鞘走りの音を立てずに抜刀する為には、瞬時に鞘の反りに合せながら抜刀しなくてはならない。

横一文字に切りつけたあと、上段に双手で一瞬構えて切り下ろす。ところが、右手のみで切りつけた後、すぐに左手を添えると正しい位置で刀の柄を握ることができない。野球のバットのように両手をくっつけて握ってしまったり、その逆だったり。
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だが、この動作を行っている時、筆者はこの上も無く集中している。「居合刀」とは言え刃がついていないというだけで、大根くらいわけも無く真っ二つにできるし、人に刺されば刺さり所によっては当然死んでしまう。自分自身も同様で、指を落したりはしないが、誤って足の上に落せば、大怪我するだろう。それ故に緊張感を持ってこの時間を心から楽しんでいる。
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「人切り包丁」という呼び方がある。このご時世に何の役に立つのかという言葉もある。「人殺しの技術なんて野蛮だ」といわれることもある。だが、武術全般に言えることだが(筆者は高校時代に柔道をしていたことがある)「自分よりも強い相手は必ず居て、そしてそれは見た目では殆どわからない」ことを実感として理解できる唯一の方法だと筆者は考えている。統計を取ったわけではないから解らないが、武術や武道をたしなんでいる人間はそうでない人に比べて傷害事件を起こす確率は格段に少ないと思っている。例えば、よくガキどものターゲットにされてしまう、小柄なホームレスが空手の有段者だったらどうするのか。武術を習ったことの無い者では絶対に勝てない。勝てないどころか、返り討ちにあってしまう。それを想定したらそう簡単に襲ったりできない。武道を齧ったことのある者なら一度や二度は「なぜこんな奴に勝てないのか」と思ったことがあるだろう。
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ルネサンスのフィレンツェに生きた官僚で思想家のニコロ・マキアヴェッリの「政略論」か「君主論」か忘れてしまったが、こんな言葉がある。「天国へ行くための最善の方法は地獄に行く道を熟知することだ。」
高度に昇華され芸術に近いものではあるが「武術」は確かに「殺人術」である。だが、それ故にどうすれば相手を殺してしまうのか、殺さずにすむのか、或いは殺されないようにどうすればいいのかを学ぶことができる。これは武術を学ぶ以外に方法が無いと筆者は考えている。
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運動不足解消にも勿論最適です。怪我をしたら仕事に差し障りのある読者諸兄姉よ。居合術は良いですよ。姿勢もよくなるし、テニスよりも怪我しない武術です。但しスポーツではないので礼節は重んじられますが。。
最後は勧誘でした。(勧誘だけ「ですます調」。。苦笑)
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# by seagull_blade | 2004-04-28 20:02 | swordplay