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by seagull_blade

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2月の人事異動により、システム開発・サポート部署から、Web-EDI導入にかかわる仕事をさせていただくようになった。これまでも営業支援的な仕事は多く、また一営業マンとして活動することもあるが、本職はあくまでもSEで、大抵、プロジェクトリーダとして開発プロジェクトを抱えたまま営業活動をしていたが、今回はWeb-EDI導入をメインとする純然たる営業担当である。個人的には「営業適性」はあると考えているし、実際、1ヶ月、仕事をしてみて、前よりもストレスが増加したとか、体力的に厳しいということは無い。従って、目下のところ嬉々としてあちらこちら飛び回っている。
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Web-EDIというが、この言葉はあまりに意味が広い。特に日本においては、IT系企業やコンサル系企業が専門用語で自らを粉飾し、実際に惑わされる対象も多い。端的にまずEDIを定義しておこう。EDIとは「Electronic Data Interchange」の略称で、「企業間電子データ交換」と訳される。早い話が、コンピュータネットワークによる企業間のやり取りである。広義にはE-mailによる企業間メールのやり取りもこれに含まれる。ただビジネス用語としてのEDIは、郵便媒体・伝票・FAXなどの紙媒体削減や転記作業、入力作業の軽減によるリードタイムの短縮、また書き間違い、入力ミスなどを防ぐデータ確実性の保持などを目的とした電子データ交換を指すことが多い。(ここでは狭義のビジネス用語として使用する。)では、接頭辞Webが付くと何を指すのかといえば、お分かりのように、インターネットを媒介とした企業間の電子データ交換である。

さまざまな業界でこうした取り組みがなされている。たとえば銀行業界では、インターネット経由で社員の口座へ給与振込を行うサービスがよく知られている。各社員の給与明細を入力したデータをインターネット上の銀行サイトへアップロードし、銀行側はそのデータを元に自動的に口座振替を実施する。また振替の明細も銀行から企業へインターネット経由で渡される。この場合の企業側のメリットは、企業担当者がかつてのように振替依頼明細を書く必要が無く、日々管理している給与・勤怠系自社システムのデータをそのまま転用することでの、業務効率化、および、銀行からの明細チェックや口座振替のスピードアップであろう。銀行側のメリットは、窓口業務が不要になることでの業務効率化、伝票転記などの入力ミスを無くすことでの、業務精度向上、自動化による運用効率の向上があげられる。

これらの取り組みは、20年以上前から既に行われてきたが、この仕組みを広げる上での最大のネックはコストであった。大型のホストコンピュータ同士を専用回線で結び、その上でデータ交換するという選択肢しかなかった時代、豊富な資金力を持つ大企業だけがこれらの仕組みを構築することができ、また、これだけのコストをかけてもメリットを出すことができたのである。また、大企業が中心の業界が最も取り組み易い環境であった。中小零細企業ではROI(投資収益率)を云々する必要が無いほど、高価な仕組みであったことは言うまでも無い。

ところが、2000年代に入ってパソコンとインターネットが爆発的な広がりを見せたことで、話は変わってくる。低コストで普及率も高く、専用回線に比べて大きな遜色も無いほどの接続速度をもつ回線サービスが一般家庭にまで普及し、社会的なインフラとしてインターネットが完全に定着してしまった。一介のサラリーマンが書いているこの記事もそのインフラ上で公開されるという時代である。ここで漸く、中小零細企業でもWeb-EDIの取り組みを行い、メリットを享受し得る時代が到来したと筆者は考えている。

さて、大企業が中心の大手銀行業界はともかくとして、総合スーパーや百貨店などの流通業界は、大量の取引先を抱えており、伝票や取引形態も多岐に渡る。名の通った百貨店でも、零細企業が生産する商材を扱うことは当たり前であり、大量に仕入れる大企業との取引であろうと、零細企業と行う、10個20個の取引であろうと「企画→発注→ピッキング→納品→検品→支払」というビジネスサイクルは変わらない。またそれに付随する手間も同じである。むしろ、スーパーや百貨店においては中小零細企業との取引の方が総体としては大きい傾向にある。

大規模小売店側としては、取引に付随する膨大な作業(確認や発生する書類、伝票類の発行・整理・管理、商材の振り分け等)を何とか軽減したいというニーズは潜在的に大昔からあったはずで、ただ、あまりに多い商材を扱わざるを得ず、それゆえにあらゆる業種・業界をまたがざるを得ない大規模小売店は、EDIという発想をそう簡単には持ち得なかった。それが2000年代に入ってからのPCとインターネットの爆発的な広がりの中で可能となって来たのである。

とはいうものの問題は山積している。まず、業種・業界ごとの標準的なフォーマットの違いである。銀行の入金伝票と郵便局のそれが違うように、アパレルに必要な商品情報と化粧品に必要な商品情報は異なる。ましてや食品ともなればさらに必要な情報は異なってしまう。それらを統一的に標準化しないことには、それぞれの業界向け、下手をすると特定の企業向けのEDIになってしまう。これでは膨大な取引先を抱える大手小売などは、とんでもないシステム投資をしなくてはならず、コスト削減というEDIのメリットを完全に食い潰してしまう。さらに、この統一化をどこか旗振り役を担うのかという問題がある。「Win-Winの関係」などとコンサルタントは簡単に言うが、お互いにメリットを得るのだから双方が費用負担をするとして、果たして何パーセントの比率になるのか・・・etc etc。
次回は、日本国内と海外における流通業界web-EDIの差異についてまとめてみたい。
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by seagull_blade | 2005-03-21 14:25 | career

エチカ。(倫理の問題)

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スピノザの著した『エチカ』は、哲学科の適当な学生時代に「哲学演習」なる授業で、ちらっと読み、そして退屈して、単位が取れる程度の勉強をしていた。『エチカ』とは英語のEthicsから解るようにラテン語で『倫理・倫理学』を意味する。ボンクラ学生の頭ではその内容も読取ることが出来なかったし、絶対知やら神やらと「倫理(エチカ)」という言葉の間の関連性もうまく読取れなかった。結局それから『エチカ』を開いたことはない。

このところ、倫理というか、道徳と言ったらよいのか、ともかくそうした事をつらつらと考えていることがある。マスコミに登場する事件や諸問題(マスコミが問題化しているもの)の多くが、このETHEICSに関るものであるような気がするのである。

倫理・道徳と言われて、すぐに連想するのは、小学生時分に見せられた「道徳」の時間のビデオ教材だったり、陳腐な説教臭い物語だったりするかもしれない。少なくとも筆者はそうである。小学生向けの教材というのは一寸早熟な児童にとっては、「馬鹿馬鹿しい」と感じられることが多いと思う。また、教師は教師で、道徳の時間と言うものをどう扱っていいかわからず、国語の授業で代替するなど、結構軽視していることもある。児童や生徒は教師の力の入れ具合など簡単に見抜くから、ますます、『道徳』という授業と言葉が陳腐化する。

しかし、現在(2005年3月)、メディアで話題となっている、「某鉄道会社を中心としたグループ元会長」やら「新興IT関連企業と古参テレビ局の対立」やら「中東からの自衛隊撤退」やら「北朝鮮問題」など、ETHICSに関らない問題はないと思うようになった。なるほど、それぞれは、構造的な問題であったり、法律の不備であったり、国際情勢・外交の問題であろう。直接の当事者達は、色々な形で関るであろう。損得であったり、逮捕拘留であったり、国際政治であったりするのだろう。しかし、ニュースとして受け止める我々や直接の当事者でない人々(IT企業VS テレビ局における元首相など)としてはこれらのニュースを感情的側面で受取らざるを得ない。「どちらに理がある」「どうすべきだ」「ひどすぎる」etc…。

個人が持たざるを得ないこうした感情の動きに関る問題、また当事者にとっても根本的な問題である感情、そうした問題を扱う学問を倫理学(ethics // moral philosophy // moral science)と呼ぶ。誤解を恐れずに言えば、心理学の前身的な部分もある。

例えば、新興IT関連企業の某社長が別段違法な方法で会社乗っ取りを図った訳でもないのに、マスコミ上で非常に感情的な問題となっているのは、恐らく倫理学の範疇の話である。今朝(3/3)のワイドショーでコメンテーターが「彼の言っているのは資本主義のホンネですよね。でも、(世間は)それだけじゃないんだという事です。」と言っていた。この「それだけじゃない」部分、これは倫理に関る問題だということの別の表現であるだろう。世間を構成する我々であれば誰もが解っている事だが、「新興成金が本音を剥き出しに喋ると目障り、耳障りだ。やるのなら、礼儀をわきまえた服装・言葉遣いでやりたまえ。」と。

その批評・批判は全く本質的ではない。彼らの業務とも、法的な問題とも、金銭的な問題とも何のかかわりも無い。そんなことは誰でも解る。言っている当の本人だって充分解っているのだろう。しかし、何かが引っかかる。当事者が彼の感覚からしてみれば「若い」ということ、それでいて全くマスメディアの大好きな「庶民」でも無ければ「若者」でもない。それに対する嫉妬。そして、世代間の対立を煽るような発言が、彼とその背景にいる世代が心の中で感じている「グローバルスタンダード」なる物への引け目を刺激すること。これらの事を某社長は明確に言う。そこで彼は「金(=力)があるのはよい。その力を行使するのもよい。だが、もう少し、私の感情を逆なでせずにやってくれ」と思うのだろう。

この感情の問題は小さな問題ではない。少なくとも筆者はそう思う。古来、あらゆる意味でのPOWER(=力・暴力・権力・財力)を持った人々が直面した問題である。アテネのペリクレスもローマのカエサルも、世間とどのように折り合うのかと言う問題と真正面から取り組んだ。どこまで世間や大衆が許してくれるのか。どうすれば喜ぶのか。世間にとって何が善で、何が悪なのか。それは自分たちの持つ善悪の判断と異なるのか。そうした諸々の感情や感覚を体系化しようとする試みが倫理学であり、体系化し得たと信じたのが宗教であったと筆者は考えている。

意識的な宗教基盤が薄れ、殆ど意味を失ってしまった現在の本邦に於いて、倫理と道徳の指針となるものはなかなか無い。一応マスメディアは『庶民感情』などと言うものを造りだし、代用しているが、受け手である我々とて、それは我々に阿っているだけであることくらい見抜いている。それでは、どこにその指針を見出せばよいのだろうか。

またしてもマキアヴェッリに触れるようで恐縮だが、『君主論』は倫理から政治やリーダー論を独立させて考えたことによって、返って倫理を浮かび上がらせていると筆者は考える。倫理とは単なる善悪の問題ではない。

某IT企業の社長の振る舞いは、告白すれば筆者は決して嫌いではない。だが、同時に『君主論』の一節を思い出さずには居られなかった。

「君主は様々な善なる性質を持っている必要はない。だが、それを持っていると人々に思わせることは必要である。」(君主論)
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by seagull_blade | 2005-03-03 13:39 | philosophism