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Have a life outside of work.


by seagull_blade

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先週あたりからコンビニの前を通ると「恵方寿司」や「節分豆」など、もうすぐ節分であることを意識させるポスターや幟があったりする。節分といえば「豆と鬼」。少し、鬼について考えてみたい。

今時の修学旅行は、北海道や沖縄、はたまた海外とあるようだが、筆者が中高生の頃の修学旅行先と言えばどちらも京都・奈良で、有名な神社仏閣をあちこち廻った記憶がある。神社に神像があることは少ないし、神体はそうそう公開しているものではない。しかし、お寺のご本尊は、秘仏で無い限り割と公開しており、有名なお寺などでは拝観料を納めて見学させていただく事が多い。その頃から薄っすら疑問だったのだが、如来像や菩薩像はともかく、明王や天部の諸尊や神々は恐ろしい姿をしていることがあるのだろうか。

調べてみると、明王(不動明王など)はいくら優しく説明しても、諭しても、話を聞こうともしない人々(「難化の衆生」)に対して、強制的に煩悩を破壊する為に、如来がとる姿(化身)とのことである。これを特に「教令輪身(きょうりょうりんじん)」と呼ぶ。これはよく解る。親が子供に対して怒って見せる姿(憤怒形)に例えてもよいであろう。へそ曲りや居直ってしまった人間に優しい言葉は余り意味をなさない。場合によっては、怒ることも大いに必要なことだろう。

天部の諸尊はバラモン教やヒンズー教の神々が仏教に取り込まれた姿であるとのことである。本来、サンスクリット語で「deva」と呼ばれた神々である。少し脇道に逸れるが、サンスクリット語はインド・ヨーロッパ語族に属す言語で、フランス語の「dieu」、イタリア語の「dio」、ラテン語の「deus」と同義(類義)の言葉であるらしい。インドにおける神々はシヴァを始めとして破壊神や戦闘神も多い為、恐ろしげな姿も理解できる。

だが、例えば庚申塔に刻まれる「青面金剛(しょうめんこんごう)」はどうであろう。筆者の住む東京でも割とあちこちに見られる。道祖神のように街中に見られ、観音像のような姿だが、三面六臂で憤怒形であったり、武器を手にしていたり、と不思議な姿をしている。調べてみれば、青面金剛は疫病を蔓延させる神であるらしい。また、各地ある、天神社は表向き学問の神であるが、怨霊である「菅原道真公」を祀っている。よく知られる天神像は衣冠束帯の姿をしているので、さほど恐ろしげではないが、よく観察すると、両目を見開き、眉を怒らせた憤怒形をしていることが多い。怨霊神としての道真公は、破壊をつかさどる雷神であり、疫病を蔓延させる神でもある。疫病を蔓延させる神でありながらスサノオと習合され、京都八坂神社の祭神である牛頭天王(ごずてんのう)など、神でありながら本来疫病や災禍をもたらす存在として崇められている神は多い。そうした神々はやはり恐ろしげな姿をしている。彼らは神でありながら、鬼であり、日本的な意味、即ち我々が思い描く意味での「鬼神」と呼ばれる存在であると筆者は考える。

本邦には、キリスト教的な意味での悪魔(devil)は存在しない。キリスト教的な意味での悪魔とは諸悪の根源であり、善なる神と対立し、世界を混乱、破滅させる汚らわしい存在と理解してもよいだろう。善悪二元論に還元される神や悪魔は、我々日本人は想像しなかった。(「天魔」があるではないかという反論が聞えてきそうだが、天魔は仏教の四魔の一つ、「他化自在天魔=第六天魔王」のことであり、所謂「悪魔」とは格が違う。人間の住む世界よりも上位に住む「魔」である。)我々にとって、神とは「善悪どちらの方向でも、飛びぬけた力を持った存在」であるらしい。それ故に、一見形容矛盾であるような「鬼神」という語彙が自然に存在するのだろう。勿論「鬼」や「神」は本来中国語であって、よく知られているが「鬼」は日本人の考えるところの死者或いは死霊である。また、「神」はキリスト教におけるような神ではなく、「神秘的」「(動物的・物理的に対しての)精神的存在」という意味であるようだ。なお、英語における「THE GOD」は中国語では「天帝/上帝」と表現されることが多いようだ。

中国語の「鬼」ではなく、日本語の「鬼」には、当然ではあるものの「飛び抜けた/度外れの」という意味が未だに生きているようである。前時代的で恐縮だが、「死して護国の鬼とならん」というような表現や「仕事の鬼」、「語学の鬼」、「野球の鬼」等の表現に表されるようにけた違いの力を持った存在を「鬼」と呼ぶ。鬼を「神」に置き換えてみても良い。ニュアンスは異なるが、更に「桁外れの」存在となるだけで、ほぼ同義であろう。また、若い世代が使う「鬼のように~」という表現も「物凄く」という言葉の言い換えであり、世代が変わろうとこの言葉のもつ意味はそれほどぶれてはいないようである。(英語においては「Demon」が同じようなニュアンスを持つらしい。)

これらの事柄は、現代日本に生きる我々には無関係なようだが、三島由紀夫氏が1970年に割腹自殺をした際、神社に祭神として祀るという話があった。これには紆余曲折があり、沙汰止みとなった。しかし、飛び抜けた精神性を持ち、割腹自殺というセンセーショナルな最期を遂げた氏を神に祭り上げるという考え方は、良くも悪くも、古代から続く「日本的」感覚が今も生きている証拠であるように筆者には思える。三島由紀夫氏の評価は色々あるだろうが、単純な「善神」ではあるまい。とは言え単なる「悪神/悪魔」でもないであろう。

とは言え、「鬼」=「悪」というニュアンスは明確にある。次回はこのあたりから考えてみたい。
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by seagull_blade | 2005-01-23 20:36 | philosophism

伝えられてきたもの。

松の内も過ぎてしまったが、2005年最初のポストである。本年も変わらぬご愛読の程、お願いしたいと思う。年末年始は、筆者のいる流通関係業界では、年間で最もバタバタしている時期だったりする。筆者にとっては喜ばしいことに毎年恒例の百貨店「福袋」は素晴らしい売れ行きを示した。バタバタしているのも嬉しい悲鳴ということで自分を納得させて、今年も頑張ろうと思う次第。

昨日8日、初稽古に参加した。年始で仕事はしていたものの、稽古をすっかりサボっていたので、今日は階段の上り下りが苦痛なほど筋肉痛である。情けないことではあるが、また身体を作り直さなくてはならない。昨日の稽古はいつもの稽古場ではなく、筆者の先生の先生にあたる方のところまで出かけた。(仮にN先生とさせていただく)場所は横浜市鶴見区である。正月でもあり、練習の後に初詣に行く約束事もあったので、ウールで濃紺の長着に白い角帯、茶色い正絹の羽織という格好で稽古場へ。体育館の入り口がわからず、うろうろしていたら、「こっちこっち」と声が掛かった。見るとN先生が満面の笑みで入り口を指差している。N先生とは一昨年、日本武道館にて行われた古武道演武大会でちらっとお会いしただけだったのだが、筆者の顔を見るなり、「おお、お会いしたことがありますね」とにこやかに話し掛けて下さった。
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覚えていただけているとは思っていなかったので、とても嬉しい。こういう一寸した感動は、社会人となってから余り得ないものであるのでとても貴重である。実際、居合を始めてから、「利害関係の無い」方々を知古として得られる事が、身体を鍛えることや技術が上達することよりも、筆者にとってはなにより楽しいことである。私の直接師事している先生(40代)を始めN先生(60代?)や同門の方々(10代~70代)、若手俳優や女優の方々、勿論、流派を超えてお付き合いいただいている方々など、会社生活だけでは得られない性別、年代、業界を超えた交流はとても大事な財産である。

「いらっしゃい、着物で来るとは思わなかったよ」「刀が無ければ落語家に見える(笑)」「せめて若旦那と呼んでください(苦笑)」ご挨拶かたがた、N先生や門下の先輩方にご挨拶申し上げて、早速基本練習へ。こちらの練習場も小学校の体育館をお借りしている。冬の体育館は、思い出していただければよく解ると思うのだがやたらと寒い。ストレッチを確り行ってから少々キツイが400本程度の素振りを行う。流石にこれだけ行えば寒さなど殆ど感じなくなる。

練習参加者はN先生を含めて7名であった。こちらに初めて伺う筆者とベテランだが忙しくて久しぶりに参加されるという門下生の方をN先生に見ていただくグループと、それ以外のこちらの門下生のグループに分かれ、形稽古を始める。

いつもの稽古場には様々な流派の方がいらっしゃるので、細かいが基本的な作法(刀礼・血振り・納刀など)をあまりうるさく言われない。筆者の稽古不足や認識不足もあり、この辺りが雑だったらしく、「刀礼」から注意されつつも丁寧に教わった。特に「納刀」ではこんなやり取りがあった。「あれ?もう一度やってみてください」「はい」「君の納刀は誰におそわりましたか?」「おそらくKさん(筆者の師匠)だと思いますが」「いやそれはないね。もしかして無外流の人に教わらなかった?」「あ、そういえばそうかもしれません」「そうでしょう。」N先生はまたニッコリ笑って丁寧に実演しながら教えてくださる。筆者の作法はいくつかの流派が混ざった雑流であったらしい。「その納刀でもかまいませんが、折角こちらにいらしたのだから、覚えてください。」こう言われ、やってみるのだがこれが不慣れで不恰好である。「そうそう。今に慣れますよ。」「精進します。」

一人の先生にじっくり教わることは重要なことだが、別の方にご指導いただく事も重要である。いつも行っていることを別の角度から捉えることができる。これは芸事や武術・武道に限らず、仕事の上でも大切なことであろう。

さて、水鴎流は立技や組居合の充実している流派であるようだ(他の流派について余り知らないのでこう書かせていただく)。筆者が普段通う稽古場では立技と組居合を中心に練習している。その為、正座した状態からの技を筆者はあまり稽古していない。この「正座した状態からの居合」というのは、帯刀した状態で正座すると言うことが歴史的には無いとされ、(正座する場合は刀を自分の右側に置くことが礼儀である。)事実、旧帝国陸軍の流派である「戸山流」や明治期に創始された「警視庁流」は立技のみであり、実用一辺倒ならば、不要であるという議論もある。しかし、各流派に現代まで伝えられてきているものであるからには、意味や意義があるはずである。勿論、水鴎流にも基本的な動きのものから複雑な動きのものまで、多くの座り技がある。N先生に正座の仕方からご指導いただき、最も基本的とされる五本の技を学ぶ。

立居合とはかなり勝手が異なり、あまり稽古していない筆者には相当難しい。抜刀、抜き付け、納刀もさることながら、膝を曲げた状態での足捌きがこれほど難しいとは思わなかった。足の指を立てるタイミング、体重移動など、立技よりも失敗すると無様である。これほど難しい(筆者だけかもしれないが)ものが、理由無く400年以上伝えられる筈も無いと筆者は思う。古くから伝わるものは、なんであれ一見無意味と思えても重要な意味や意義があることが多いのではないだろうか。ともあれ、意義や意味など考えるのは、「100年早い」と怒られそうである。まずは日々精進である。昨日の稽古はとても短く感じる2時間であった。
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by seagull_blade | 2005-01-09 14:32 | swordplay