Have a life outside of work.


by seagull_blade

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昨年、i-Pod©を購入したのだが、20GBというディスク容量は大きすぎて、いつまでたってもディスクがスカスカである。20GBというと、一般的な圧縮形式データで、5000曲格納できる計算になる。最近、といっても数ヶ月経つが、発売されたi-Pod miniは容量が4GBとのこと。これでも1000曲格納できるので、この発売まで待てばよかったと少し後悔している。しかし、CDやカセットテープを持ち歩かずとも大量に格納できるという点、携帯ハードディスク型音楽プレイヤーはかなり便利なのでドライブ等には画期的であったりする。
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「本棚を人に見せるな」という言い方がある。本棚は確かに当人の「嗜好や思考や志向」がどうしても現れてしまう。筆者もやはり見せたいものではない。「i-Pod」も小さな液晶ディスプレイを見ることで、その人の音楽嗜好がはっきりわかってしまう。筆者の場合は本棚よりは見せてもよいものである気がするので、少し中身を紹介しようかと思う。

最近「スカスカのハードディスクを埋めるのに丁度よい音楽は」と考えると、割とサントラものを購入する傾向がある。TVドラマや映画音楽など、サントラは「良い所取り」であることが多いので、考えなしに聞くにはとてもよい。高校生の頃は好みのアーティストをとことん追求するタイプだったのだが、どんどん雑食の傾向を示してきている。というよりもむしろ、「好きなミュージシャンを探すのが面倒になってきた」だけなのかも知れないが…。

サントラのよいところは他にもあって、「既知の曲が多い」ということもその一つであろう。全く知らない曲を聴くのは新鮮な楽しみがあるが、馴染むのに時間がかかるし、聞いてみるまで好みの楽曲であるかどうかがわからない。その点サントラは多くの場合、映画やドラマを既に観た後だから、曲は意識的に覚えていなくとも、記憶のどこかにあることが多く、「あ、そうそう」的な感覚で聴くことが出来る。

筆者の場合、最近の映画やドラマのサントラを購入することもあるが、幼い頃に見ていたTVドラマのものや、古い映画のもの、或いはシリーズものの主題歌を集めたものを割と購入しがちである。最近では「007シリーズ」のテーマを集めたものを購入した。シリーズをすべて観ている訳ではないが、都心にも郊外にも合うのでドライブにはとてもよい。ただ、「シリーズのテーマソング」ものは知らない曲が混じっているので、新鮮さはあるものの、「あ、そうそう」的聴き方には今ひとつである。そこに来ると、幼少時に観ていたTVドラマは最適である。

拙文のタイトルでバレバレだが、最近好んで聴くのはご存知「必殺シリーズ」である。兄弟居らず、周囲が大人だった所為か、小学校へ上がる前から時代劇を祖父母や両親とよく観ていた。「大江戸捜査網」や「伝七捕物帖」、「暴れん坊将軍」などなど。しかしなんと言っても大好きだったのは、『必殺仕事人』である。池波正太郎の「仕掛人藤枝梅安」が原作(ほとんど原型をとどめていないが)で、1972年から91年まで「名を変え、手を変え、品を変え」続いた「必殺シリーズ」は読者諸兄姉もご存知の方が多いのではないだろうか。出演者の変遷も多い為、好きだった作品も多く別れることだと思うが、筆者にとって「必殺」と言ったら、藤田まこと扮する『中村主水』、山田五十鈴の『おりく』、中条きよしの『勇次』、三田村邦彦の『秀』、鮎川いずみの『加代』が登場する、「新 必殺仕事人」である。

今思えば、「どうして秀は、みな歩いて『仕事』に行くのに、一人だけ泳いだり、走ったりしているのか」「勇次の三味線の弦は錘もついていないのに真直ぐ飛ぶのか」などと突っ込み処満載なのだが、ドラマそのものは、完全懲悪とは言い切れず、また江戸町人生活が確りと描かれていて、後半はどんどんギャグと化していくにもかかわらずよいドラマだったように思う。

閑話休題。Amazonで「必殺シリーズ」のサントラを購入した。サントラは全集が発売されていたが、自分がよく観ていた頃の『新必殺仕事人 / 必殺仕事人 III』を購入。早速、聴いてみることに。

勿論、有名なトランペットのテーマは言うまでもないのだが、こうして聴いてみると「ウエスタン」と「演歌」と「フュージョン」が渾然一体となったなんとも言えない世界である。フュージョン調の音楽をバックに古今亭志ん朝のセリフが入るオープニングナレーション。懐かしさとおかしさで聴きながらニヤニヤしてしまう。楽曲のそれぞれが、「あ、中村主水が袖の下でも取りながら町をぶらぶらしているな」とか、「このあたりで雲行きが怪しくなるな」などと、場面場面をイメージできる。

例のトランペットが流れた後は「仕事」のシーンに使用されたBGMである。トランペットがメロディラインを奏で、ストリングスとベース・ドラムがバックを支える。夜勤の際など眠くなって来たら、ヘッドホンでこの曲を聴くと気合が入ったりする。仕事のBGMが終わると、急に演歌調というかメロドラマ風のストリングス『中村主水のテーマ』が流れる。これを聴きながら帰宅すると不思議な充実感が…。

読者諸兄姉にもこのように感情移入(むしろトリップかも)してしまう一枚はないだろうか。
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by seagull_blade | 2004-11-28 14:20 | musique
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今から独立して商売、特に「仕入れて売る」という小売業を生業にしようと考えたとする。当然、資金集めや取引先の決定、会社登記をはじめとする様々な手続きをしなくてはならない。まずは、簡単でもよいから事業計画を作成しなくてはならない。事業計画書を銀行等の資金提供者に持っていったとする。様々な突っ込みが入るだろう。事業ビジョン。計画。そして、貸し手としては貸し倒れが最も恐いことなので、リスク管理も厳しく問われるだろう。小売において特徴的なリスクとはなんであろうか。

運転資金のリスク、事業計画そのもののリスクは勿論だが、小売業で最も恐いリスクの一つは「不良在庫」を抱え込むことである。仕入れたものの売ることが出来ず、倉庫に山積となった不良在庫。これは恐ろしい。INがあってOUTがない、StockはあってもそれがGainにならない。どこの小売業者もあらゆる方法を使ってこの状況を回避しようとしている。POSシステムを導入して、「売れ筋」「死に筋」を測定したり、徹底した在庫管理で、欠品⇒発注⇒検収⇒売場という流れを自動化するケースもある。これらは業務効率化など多くの意味があるものの、究極的には不良在庫を抱え込まないということを目的としている。

さて、不良在庫を抱え込むというリスクを一切負う必要が無い経営形態があると言ったら、信じられるだろうか。仕入れた以上、売れないというリスクは必ず発生する。そんなことはありえない。普通はこのように考えるのではないだろうか。筆者も流通系システム会社へ入社するまではその様に考えていた。だが、実際にそのようなビジネスモデルはあるのだ。やはり言わずと知れた「百貨店」である。

百貨店には「売り仕(うりじ)」という言葉がある。これは「売上げ仕入れ」の略語である。「消化仕入れ」とも言う。まさに読んで字の如しであって、これは「売上げた分のみ仕入れた事にする」という会計上のマジックである。つまり、商品を調達して売場に並べていても、売れるまでは卸側の在庫にしておき、売れた途端に大至急仕入れ計上を行い、同時に売上げを立てる。こうすることで、売れ残りの損失、価格下落による被害、品痛みなどのあらゆるリスクは、百貨店側にとっては消滅し、リスクフリーの経営が可能となるというものである。勿論このリスクはどこかが持たねばならない。当然この場合は御元やメーカが負うことになる。

「そごう」が破綻した際、新聞紙面にも「消化仕入れ」や「場所貸し」といった言葉が踊ったことを覚えていらっしゃる方もおられると思う。世論でも「消化仕入れけしからん」という風潮があった。確かに圧倒的に小売(百貨店)有利なこの仕入れ形態だが、それならば、なぜこのようなことが許されているのかを考察してみたい。

あらゆる物事にはプラスとマイナスの面がある。「売上げ仕入れ」の場合も考えてみよう。まず、百貨店にとってのプラスははっきりしている。不良在庫リスクを一切負わないということである。上述の通り、これには計り知れないメリットがある。売れ残り・流行遅れによる陳腐化・品痛みなどあらゆるリスクが解除される。いいこと尽くめのようだが、当然マイナスの要素もある。百貨店構造不況などと言われ、そごうを始め大手百貨店の苦境が話題となった時期があったが、このそもそもの原因は「ノーリスク」での仕入れをおこなったことである。「百貨店は場所貸しの不動産業だ」などと言われたそもそもの原因はここにある。

とはいえ「場所貸しの不動産業」という批判は単に「テナント」へ場所を貸与するというだけという意味であったが、これでは不動産業に対して失礼であり、浅薄な批判である。実際にはプロダクト・アウト(供給主導)の構造が崩れ、マーケット・インやカスタマー・インという構造に移行した80年代から流通業界は圧倒的小売主導になった。供給側(ベンダー)は本来、小売側が負うべきリスクを負ってでも店頭に品物を置いてもらうことに腐心し、その結果として、「売り仕」構造(元々あったが)が固定化されてしまった。

しかし、小売側の百貨店にも致命的な影響が出ている。全てのリスクをメーカで負うということは、百貨店側の企画・開発・販売の能力を相対的かつ総体的に落としてしまう結果となった。百貨店の構造不況のポイントはここにあると筆者は考えている。遅まきながら多くの百貨店ではこのことに気が付き、売り仕ではない「買取」の商品を増やし、自主企画商品や自社ブランドを創造し、リスクを取って能力を向上させるという方向に出ている。「三越グループ」の「脱百貨店」というスローガンもこのノーリスクでの商売が、構造的な低利益を生み出していることへの反省であろう。勿論、三越に限らず、自主MDをどこの百貨店でも進めている。

そごうの破綻は勿論、水島元会長による独裁的放漫経営も大きな原因だったであろう。しかし、リスク回避による仕入れ、ベンダーへの強度の依存という体質も、もう一つの致命的な原因であったと筆者は考える。

別段、この問題はそごうに限らない。どこの百貨店でも同様である。自社の企画力、マーチャンダイジング力を高め、月並みではあるが「他には無い」価値をつけていくこと。今のところ、それ以外に解決策は見出せないのでは無いだろうか。百貨店は「マーケット・インの構造」というベンダーにあらゆるリスクを負わせるほどの強力な立場を、別の方向に見出す必要を感じているであろう。その回答を見つけることも、価値の創造とともに最優先すべき経営課題である。
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by seagull_blade | 2004-11-17 22:12 | career

真剣。(試斬体験記)

剣道や居合道という言葉は割と知られているが、「抜刀道」という言葉をご存知の方は少ないのではないだろうか。かく言う筆者もつい最近まで知らなかった。幕末以来、剣が実用性を失ってからも、古流の武術として、或いはスポーツとして剣術は発展してきた。しかし、学問においても顕著であるように、発展するということは細分化、専門化することと同義であるようで、剣術も細分化、専門化した。
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ご存知「剣道」は竹刀を持ち、防具を付け、打突(だとつ)し合うことでポイントを争うスポーツである。勿論、スポーツであるか武術であるか異論はあると思われるが、「殺し合い」の要素を排除して、誰でも参加しできる物であることを考えれば、スポーツとして定義されると思われる。またスポーツであるが故に、これほど普及したと考えられる。

では次に「居合道」だが、これは真剣もしくは居合刀(居合用の模造刀)を用いて、主に形を稽古するものである。古流と呼ばれる流派に例外はあるが、基本的には、敵がそこにいるものと仮定して空間を斬る「空間刀法」である。筆者が稽古している古流「水鴎流」は組居合や組太刀と呼ばれる、実際に相手を置いて稽古する形が多いが、それでも実際に敵を切断する訳ではない。(犯罪である)しかし、殺し合いの要素は多分に残っており、真剣や居合刀を使用することを考えると、居合道は武術とスポーツの間に位置するものであり、剣道よりは武術に近いものと考えられるのではないだろうか。

では、抜刀道はというと、これは「真剣」を用いて、実際に物体を斬る「真剣刀法」である。歴史的には一番新しく、戦前の帝国陸軍が軍刀の扱い方を召集されてきた兵士へ教えるために、古流剣術から考え出された7本の形の剣術である。陸軍戸山学校(現在の都営戸山住宅一帯)で、創出、教示されていた為に、「戸山流抜刀術」と呼ばれるものとなったとの事である。元々は単に「軍刀の操法」と呼ばれ、戸山流抜刀術を経て、「抜刀道」「居合抜刀道」「中村流」「戸山流」などに分かれ現在に至っている。

先日、機会を得て「戸山流」の試斬会に参加させていただいた。水鴎流でも本部道場などの比較的大きい道場などでは、真剣での試斬を行っていると聞いたが、戸山流の抜刀道では流派を超えて真剣での試斬を教えている。真剣も貸し出していただけるとの事で、筆者が稽古させて頂いている練習場のメンバー一同、喜んで参加することに。とは言うものの、お借りした刀を曲げたり、刃毀れさせてしまっては一大事、まずは、いつもの練習場で居合刀を使って新聞紙を斬る練習をした。

居合刀はダイキャストなどの硬質合金を刀身に使用しており、刃付けが出来ないものである。刀身以外は可能な限り真剣と同様のつくりをしており、大根程度なら簡単に切れる。練習生の方のうちのお一人に、新聞紙を広げ、上の二隅を固定するように、丁度、陸上競技の高跳びで使用するような掛け台を作成していただき、交代で広げた新聞紙を斬る練習を行った。

面白いことに、刃のついていない居合刀でも、刀身と刀身の振る道筋が一致し、真直ぐ新聞紙に入ると(これを「刃筋が通る」という)、スパッと真っ二つになる。しかし、少しでも手元が狂うと新聞紙はグチャっと皺が寄り、破けてしまう。また、普段空間刀法で練習している筆者は、目の前の新聞紙を斬るということだけで力んでしまい、何度か床まで斬りつけてしまった。「本番でやるなよ~。自分を斬っても、床だけは切るな~。曲げたら弁償だぞ…。」師事している先生からそんな突っ込みが入り、確り止めることを意識して試斬会に臨むことに。

試斬会は区立中学校の「格技室」を借り切って行った。世田谷区内にあるその中学校は武道系のスポーツが強く、設備も充実している。試し斬りの目標とする、濡らした古畳表を巻いたものや台座を持込み、まずは戸山流の先生にご挨拶申上げて、いつもどおりの基本練習を行う。戸山流の先生は83歳というご高齢だが、とても丁寧で高圧的なところが全く無く、角帯の結び方から袴の穿き方、脇差の差す位置、大刀の差す位置、下げ緒の始末の仕方など、一つ一つ教えて下さった後、まずはお手本を見せていただく事になった。

直径15cm程度の畳表を台座に垂直に、丁度「⊥」という形に立て、背広にサンダル履きという姿のまま、刀を抜いて、先生は目標の前に立った。「まずは斬り込む位置を決め、五回、静かに素振りしてください。左右とも五回ずつ。誤って自分の足を斬らないように、右から斬り下ろすときは、左足を引いてください。左からも同様にしてください。」そのように説明されながら五回ずつ左右に素振りを繰返し、いきなり、気合を入れることもなく、右・左と上から5回連続で斬り下した。目標はバラバラになって、先生の足元へ転がった。それまでは83歳といえば、83歳に見える好々爺然とした先生が、29歳の筆者よりも高速で刀を振るった。

「では、やってみてください。」そういわれ、まずは筆者の先生が行った。流石に斬り損じることなく、試斬を終えたが、先ほどのお手本と比べると、斬られた目標がその場に落ちるのではなく、部屋の端のほうまで飛び、さらに回数も左右二回ずつ、四回しか斬れていない。筆者の番が廻ってきた。お借りした真剣を持ち、目標の前に立った。言われたとおり、左右5回ずつ素振りを行い、重さと斬り込む位置を確かめてから、「エイッ!」と気合を入れつつ、右袈裟に斬り下ろした。丁度目標の一番上を斬り付けたようで、掠めただけである。「力を抜け」といわれ、今度は左袈裟に斬り下ろした。これは上手くいき目標が45度の角度で斬り口を見せている。続いて左右から2回斬り下ろし、合計やはり4回。
上手く斬れた場合、直径が10cm程度の水を吸い込んだ畳表は、殆ど手ごたえもなく両断されている。斬ったこちらは「エッ?」という感じだ。もう少し、想像するような手ごたえがあるのかと思っていたが、良く斬れる包丁で大根を切ったほどの手ごたえもない。

「日本刀は斬れる魔物だ」と中村流の始祖、中村泰三郎先生は書かれていたが、まさに魔物である。よほど扱いに慎重を期さないと敵を斬る前に自分を斬ってしまう。目標の畳表を他の手段で切ろうとすれば、ノコギリが必要であろう。しかし、日本刀を正しく扱えば、苦も無く切れてしまう。この魔物を取扱うには取扱う者にもある程度の心得と、ある種の精神力が必要だろうと感じた。少なくとも、きちっとした自己管理ができないものは、こんなものを所有してはいけない。筆者も真剣が欲しく、試斬会で益々欲しくなるかと思ったが、「自己管理もろくに出来ない未熟者」、当面必要ないと考え直した。

真剣を持ち、扱うにはそれにふさわしい人間性が要求されると思い知らされた、良い経験であった。同時に日本語の語彙にある「真剣に」という言葉がどういうものかも少し理解できた気がする。
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by seagull_blade | 2004-11-07 14:32 | swordplay