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by seagull_blade

カテゴリ:reading lamp( 8 )

前にも記したが、学生時代まで私はかなり西欧に傾倒していた。中学の頃、ちょっと大人びた友人に進められて、河出文庫の澁澤龍彦著作を一読した。澁澤栄一に連なる彼の著作は良い意味で生活感が一切排除され、優美なデカダンスに満ちた世界に魅了され、結局、高校、大学と「西欧世界への憧れ」が、私にとってのひとつのテーマとなっていた。
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その結果、日本史というものの知識がほとんどなく、社会人となってからの、なんとなくではあるものの読書テーマが「日本史」ということになってきた。居合を勉強させてもらい始めてから、ますます日本の伝統、思想というものに興味をもつようになり、その伝統の親たる日本史についての知識の空白を埋めようとしている。大袈裟に言えば、自分がここにいる根拠を何とは無しに探しているのかもしれない。勿論、単なる楽しみとしてであるが。

そんな訳でまだまだ大して読んではいないのだが、いくつか強烈な印象を受けた著作がある。その中で、ミステリを読んでいるかのような興奮と著者の強い思いがダイレクトに文章に叩き付けられ、私の目を離させないというものが、この『隠された十字架』であった。『隠された十字架』は昭和47年(1972年)に初版が刊行されている。その直後から賛否両論を巻き起こしたというこの本を一読すれば、なるほど論争を起さずにはいかないということがすぐに納得できる。

さて、この『隠された十字架』はサブタイトルが「法隆寺論」となっているとおり、法隆寺についての仮説である。著者の梅原猛氏は哲学者であり、歴史学については、やや門外漢なのだが、それゆえにこそ大胆な仮説が立てられるという態度である。すなわち、細分化、専門化する現代の学問はそれゆえに、より深化するが、それぞれの学問が有機的なつながりを得にくいという欠点をもつ。

著者の梅原氏は「細分化されたそれぞれの学問」を問題点として明確に掲げ、意識的に綜合する作業をこの著作の中で行っている。また、デカルトの「方法的懐疑」を法隆寺に持ち込み、それまでの常識から疑ってかかるという驚くべき作業を行っている。

この本は、三部に分かれている。そしてあたかもミステリ小説のような手法をとっている。目次を見ればある程度の流れが理解していただけるだろう。第一部は「謎の提起」、第二部は「解決への手がかり」、そして第三部は「真実の開示」である。勿論、全ては梅原氏の仮説であるに過ぎないが、思っても見ない法隆寺の別の側面が見えてくる。

法隆寺といえば、私の世代の定番として修学旅行でみた記憶ぐらいしかない。また、ぼんやりと「聖徳太子」が建立した寺で、世界最古の木造建築物である五重塔があるというような知識しかない。梅原氏はまず、法隆寺に関する謎を七不思議になぞらえて「法隆寺の七つの謎」というものを第一部で提起する。それはよく知られたなぞもあれば、そうでもない謎もある。以下に列挙してみよう。

1.『日本書紀』に関する疑問。法隆寺建立が国家規模の事業であり、法隆寺以外の寺院建立が全て記載されているにもかかわらず、法隆寺だけが正史である『日本書紀』に一言も書かれていない。それはなぜか。
2.『法隆寺資材帳』という各寺院に時の国家権力が提出させた財産目録に関する疑問。何よりも正確を期して書かねば、責任を問われる書物に法隆寺の設立についてきわめて曖昧にしか書かれていない。それはなぜか。
3.法隆寺の中門にかんする疑問。門の真ん中に柱が立っている。不便極まりない作りにしたのは何のためか。
4.金堂には普通は一寺院に一体の本尊が三体もいる。またそれぞれの本尊や内部の装飾の様式の時代形式がバラバラである。それはなぜか。
5.塔の礎石から火葬骨が出てきた。これは誰の骨か。また資材帳に書かれた塔の高さと実際の高さがあまりに違うがそれはなぜか。
6.フェノロサによって開陳された、有名な救世観音がある。1000年以上もの間、厳重に秘仏とされてきたが、それはなぜか。
7.法隆寺の祭りといえば聖霊会であるが、その際に「太子2歳像」や「7歳像」「16歳像」も合わせて祭られる。また舎利も舎利殿から取り出して祭られるが、それはなぜか。

梅原氏はこれらの謎を提唱し、これまでの学説や当時の政治状況を手がかりに説得力のある仮説を提示してゆく。知的興奮という言葉を実感できるという稀有な例である。梅原氏はその仮説の結論として法隆寺とは聖徳太子一族の霊を慰める鎮魂の寺であり、聖徳太子自身は怨霊であることを証明してゆく。

私は太子が怨霊である、またその可能性があるということは知らなかったし、またその説明の過程で明らかにされてゆく、藤原鎌足の権謀術数、藤原不比等の天才的な政治手腕はすさまじい。私が何よりも印象に残ったことは、昔の人々は我々と変わらない、否、それ以上に高いレベルにあるかもしれないということである。この知らず知らずに身についてしまった、「歴史は進歩する」という思い込みを打ち破ってくれる。

今は喜寿を越えられている梅原氏だが、四十代に書かれたこの著作は熱気を持って己の説を証明しようと書かれている。その情熱の一端に触れてみるのは如何だろうか?
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by seagull_blade | 2005-11-13 20:53 | reading lamp
『亡国のイージス』は7月末に映画が公開され、私の好きな俳優の一人、真田浩之主演ということもあり気になる映画ではある。とはいえ未だに観ていない。それではと、終戦記念日も近いこともあり、購入してみた。上下巻で700頁を超えるなかなかの大著である。
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舞台は護衛艦「いそかぜ」。この船の中で物語は進行してゆくのだが、それぞれの登場人物の持つ「過去」や「現在の生活」も丁寧に描写されている。小説の1/5はその描写に費やされている。この部分を読んでいる時は、正直、読了できるかと考えていたのだが、それは杞憂であった。

感想を一言で言えば、この1年で読了した小説の中では5本の指に入る面白さであった。読み終えることが惜しいという感覚を持てる小説を私は「面白い小説」としているのだが、本書はまさしくそれである。3日間の休日の内、ほとんど丸2日読みふけってしまった。

この手の小説はある程度、軍事的なテクニカルタームが出てくる。年少の折、パイロットになりたかった私は、航空機については、専門書の類でない限りは注釈を必要としない程度の知識はあるつもりであるのだが、艦船の知識はほとんどなく、また現在のミサイル技術、およびそれを防御する技術がどれほどのものなのかということの一端を本書で見ることができた。しかしこうした文章を書くと「ミリタリーマニアが喜びそうな小説」とレッテルを貼られそうである。

だが、本書の魅力はそんなところにはない。もちろん、そうした細部がよく書けているからこその魅力はあるが、私には「物事をどう受け取るのか」ということをエンターテイメントにしたということに最大の魅力があるように思う。

「人は見たいものしか見ない。」「物事を宿命的に受け入れると思考は停止する。」これらの言葉が、読了後頭に浮かんだ。それぞれ何処かで読んだ言葉である。塩野七生と山本七平の著作だったか。見たくない、換言すれば考えたくない事柄は、意図せずとも我々は避ける。私も含めて弱い葦である我々は目の前の事柄のうち、見たくもない・考えたくもない物事を避けるからこそ、どうにか生きることができる。とは言いながら、この受け入れがたい物事は、私とは無関係にそこにあり、見たくないから見えていない私とは無関係に事態は推進してゆく。これは克服しがたい我々の、否、余人は知らず私の弱点である。

歴史上の天才には、己の「意識的」「無意識的」なフィルターが非常に薄い者が存在したであろう。歴史は主に政治史であり、その中で活躍し、君臨する政治に携わる英雄たちは見たくない物事が見えてしまう人たちであったかも知れない。だが、そういう人々は例外中の例外である。それぞれの時代性という制約の中とはいえ、見たくないものも直視できるという天才はあらゆる天才というカテゴリーの中でも最も少ない部類に入るだろう。

だが、私や読者諸賢も含めて多くの人間はそうではない。見たくないものは見えないし、信じたくないものは信じない。それが当然であり、だからといって責められるようなことではない。

小説の手法として、超人的な人格を登場させ、活躍させるということがある。特にこの『亡国のイージス』のような、ヒーロー/ヒロインが活躍する物語はそうである。この超人的な人格は、先に記したような「フィルターの薄い」人々である。たとえば、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロ、これほどまでではなくても、大沢在昌の「新宿鮫」シリーズの鮫島刑事など、枚挙に暇がない。彼らは通常人では気がつかない物事に気がつき、通常人が恐れてしまう事態に対して、とんでもない勇気を持って対処してしまう。彼らは作者の手によって、他の登場人物には見えない事柄が見える目を与えられ、見たくない現実を見据えつつ対処するだけの力が与えられている。

こうしたヒーロー/ヒロインの活躍は読者を安心させ、カタルシスを味合わせる事ができる。読み手は活躍する彼らに憧憬を感じつつ、理想化した己を重ねて活躍を楽しむ。もちろん読み手も、彼・彼女らが理想化された人々であることを承知の上で作品に酔う。

しかし、この『亡国のイージス』に出てくる登場人物たちは、こうして理想化された人格ではない。それぞれが、見たくない現実を見ないように見ないように生きている普通の人々である。それぞれに背負った現実と向き合わないようにしながらも、それでは解決にならないことをうすうす気がついている、私や読者諸賢であるところの人々である。うすうす気がついているからこそ、悩み、考え、もがきながら、どうにかこうにか次々に起こる現実に対応している姿が描かれている。

また、一見、超人的な力を持つ人々もこの物語には登場する。彼・彼女らはなんの迷いもなくその力を振るっているように読める。だが、そうした人々は「物事を宿命的に受け入れる」事で、一種の思考停止に陥っている。思考が停止しているからこそ、普通の人々が持つ恐れや迷いがなく、強大な力を振るうことができる。それゆえに、思考が再び動きだした時が、彼・彼女らが本当に現実に直面するときであり、その脆さ、危うさを露呈する。

普通の弱さを丁寧に描き、超人的な力をその思考停止に位置づけたこの物語は、多少のご都合主義を割り引いても、作者の人間への洞察力を感じさせる作品であった。
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by seagull_blade | 2005-08-23 12:53 | reading lamp
京橋まで出かけた折に、帰りの電車の中で読む本を探しに八重洲ブックセンターへ入ってみた。電車の中で読むのだからと文庫の棚の前で一寸ばかり物色していると、学生時代に読み始めたが途中で止めてしまった本を岩波文庫あたりに多く見かけた。今なら読める本もあるだろう。そう考えて『日本の弓術』を棚から抜き出して購入した。ワンコインなのも嬉しい。
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著者のオイゲン・ヘリゲル(1884-1955)は、東北帝国大学(現、東北大学)へ講師として招かれ、大正13年から昭和4年に掛けて日本に滞在していた。哲学者としての著者は、新カント派に属するのだろうか。ここで取り上げている「日本の弓術」でも神秘思想のかなりの理解と傾倒があるように私には思える。少し調べてみると、エミール・ラスクの弟子であり、バーデン学派に連なるようである。このあたりのドイツ観念哲学は門外漢の筆者にはなんとも言えない。ドイツ観念哲学とはあまりに大雑把な括りではあるが…。

『日本の弓術』は著者がドイツへ帰国した後、日本文化の紹介としてベルリンで行った講演の原稿である。古代ギリシアで確立した論理的思考そのままの西洋人が東洋思想、とりわけ『禅』の思想を理解する為に、友人の紹介で阿波研造氏(弓道範士十段 東北帝国大学弓術師範)の元で弓術の稽古を始める。師の言葉に戸惑いながらも、執拗とよべる程の稽古を重ね、五段を得て帰国するまでの過程を平易な文章で表現したものである。

ベルリン講演の原稿であるから、著者が意識しているオーディエンスは当然ドイツ人であるのだが、現代日本に生きる我々日本人にも返って解り易い文章である。というのも思考の様式として「擬似西洋化」した我々にも、阿波師範の言葉はもはや解りにくいものとなっているからであろう。

「弓を弾いて的を射る」この行為について、著者ヘリゲル氏にも、或いは門外漢の私にも当然ながら以下のような過程が想像できる。
①「左手に弓を持ち、右手に矢を持つ」
②「弦を引き絞り、的にねらいを定める」
③「的に照準が合った瞬間に右手を離し、矢を射る」
だが、阿波師範はこのように説明しない。
①「左手に弓を持ち、右手に矢を持つ」
②「力を抜いて弦を引く」
③「矢が自然に離れてゆくのを待つ」
要約するとこのようなプロセスである。①はともかく②及び③は、論理的に思考していてはさっぱりわからない。論理的には矛盾があるからなのだが、少なくとも私は「何となく解らないでもない」位に捉えることができる。恐らく、平均的な日本人にも同じであろうか。しかし、ドイツ人の著者は違う。徹頭徹尾、ロゴスの世界の住人である。

「力をぬきなさい」と言われれば「力を抜いたら弓が絞れないではありませんか」と当然の反論をする。師範は「(弦を引き絞った状態で)私の腕を触ってみなさい」と実演してみせ、著者の反論を封ずる。一事が万事この調子なのだが、著者自身も言っているように「ドイツ人特有の執拗さ」で、稽古を続けてゆく。そして一つ一つ、我が物としてゆくプロセスが非常に面白い。というよりも上述したように、「擬似西洋化」した我々にも解り易い。著者は決して「解ったような気」にならない。納得いかなければ納得いくまで、師範に質問し、稽古を重ねる。

剣禅一致という言葉があり、これをどのように捉えるかはなかなか難しい問題だが、今の私はこのように考えている。即ち、言葉(論理)によって表現できることには一定の限界があり、それゆえに、言葉では伝えられない(不立文字:ふりゅうもんじ)ものを「実践」を通して伝えるという部分に、「剣術」と「禅」との共通項がある。それゆえ、剣術を稽古してゆくことは、そのまま禅の修業に置き換わるものであるというように。勿論、素人の浅はかさは百も承知で記しているので、そのあたりはご容赦願いたいのだが。

私は居合の稽古をさせていただいているのだが、ある動作ができて初めて解るという言葉が多い。例えば、上段に振りかぶり、正面を斬り下ろすという動作の際、ポイントは幾つもあるのだが、斬り下ろした刀を臍前あたりで止めるという事がある。これは見た目の美しさもそうだが、斬り下ろす動作を行った直後に、また次の対敵動作へ移る為には必須の動作である。これが私にはなかなか出来なかった。「刀を止めようとして止めるな」と注意されたが、この言葉も矛盾している。だが、稽古を重ねて出来るようになると、上記のような表現のほかに表現しようもないことが解る。

さて、ヘリゲル氏は必死に考え、実践し、弓術の稽古を通して、非常に大雑把な括りだが「西洋的認識」と「東洋的認識」の違いを解き明かそうという試みを行っている。この本の魅力は真摯にその試みをしているところにあると私は思う。また、その真摯さに阿波師範も精一杯答えているように読める。そのことが本書を感動的にしているのであろう。

「不射の射」とは中島敦の『名人伝』に出てくる言葉だが、そうしたものを少しでも理解しようとする人にとっては、最高の書の一つであると読了後に考えた一冊であった。

(謝辞:i-watcher様のコメントに触発されて書いたものです。ありがとうございました。)
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by seagull_blade | 2005-05-03 13:39 | reading lamp
過日、今年(2004年)4月から開始した本ブログが10,000ヒットした。始めた当初は、まあ年間で3,000も記録すればまずまずと考えていただけに、正に「望外」の喜びである。心よりご愛読を感謝する次第。拙文も楽しみにして頂いている方がいると思うと、更新頻度の低さが非常に心苦しい。平にご容赦願うのみである。

年の瀬となり、毎年の事ながら「光陰矢の如し」というのは本当だと実感する。この時期になると例年話題のNHKだが、今年は様々な意味で話題となっているようだ。この面の感想、批評はTVで盛んに為されているので、私は沈黙することにして、来年の大河ドラマに繋がる話でも書いてみたい。
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とは言いながら、大河ドラマを見なくなって久しい。最後にストーリーが解るほど観たのは『翔ぶが如く』である。調べてみると90年の放映であった。それ以降は殆ど観ていない。『秀吉』は少し観たような記憶があるのだが。2004年の『新撰組!』は縁あって、出演した役者の一人が私の通う稽古場に出入りしているので、彼が出演している放送だけを観た。(本人に断っていないので誰とは言えないのだが)感想は書かない。

さて、2005年は『義経』である。私は日本史の知識が抜け落ちており、(単なる知的怠慢なのだが)これを少しでも埋める為、社会人になってから大河ドラマに採り上げられたテーマ周辺について書かれた書物を数冊程度だが読むことにしている。タッキーとマツケンサンバか…とは思いつつ、折角なので、『義経』についての本も読んでみることに。天邪鬼とは言わないまでもへそ曲りではある私は、大河ドラマの原作本である『宮尾本 平家物語』(宮尾登美子著:朝日新聞社刊)ではなく、司馬遼太郎の『義経』を通勤時間の友とした。

「司馬遷には遼に及ばない」という謙遜、或いは司馬遷に己を比する自信をペンネームとした司馬遼太郎作品で、私が最初に読んだのは『国盗り物語』であった。中学生だったと思う。司馬史観と言われ、読み手の考え方に影響を与えずにはいない氏の本をご多分に漏れずよく読んでいた。『跳ぶが如く』『竜馬が行く』『燃えよ剣』『この国のかたち』など…。今となっては司馬史観を全面的に肯定する訳ではないが、何となく歴史小説を探す際には「司馬遼太郎」と書かれた背表紙を探してしまう。

『義経』はその出生から死までを描いているが、義経の最盛期を中心に採り上げている。敢えて感想を一言で述べれば、「随分と主人公である『義経』に点が辛い」という印象であった。筆者は文中で義経を「政治的痴呆」と言い切っている。司馬氏は別の著作の中で「平和とは手脂がべた付く手練手管を必要とする」という趣旨を述べている。この観点からすれば、源義経という人物は、そういう手練手管を一切理解できないというところに特徴があるのだから、点も辛くなるというものであろう。また、太平洋戦争へと向かう昭和初期に義経公は、大いに戦意向上に利用されてしまった為に、戦車兵(だったと記憶しているのだが)として従軍され、シベリアでも抑留された司馬氏にとって、義経公はあまり美化したくない対象なのかも知れない。とは言えそこは司馬遼太郎氏、読み応えも充分にあり、私にはなかなか面白かった。

司馬遼太郎氏の『義経』と他数冊の書物を読んだだけで、評論を書くほどの知識が無いのを承知で、少し「源義経」という人物について考えてみたい。「判官贔屓」という言葉がある。ご存知の通り、これは「源九郎判官義経」を兄であり鎌倉幕府の元首である「源頼朝」よりも好むということを語源としている。辞書には「〔源義経が兄頼朝に滅ぼされたのに人々が同情したことから〕弱者や薄幸の者に同情し味方すること。また、その気持ち。」(三省堂提供「大辞林 第二版」)とある。

確かに、司馬氏が相当に点を辛くして義経を表現しているのだが、もし私が同時代人として身近に感じていたとしたら、抗い難い魅力があるのではないだろうかと思えてしまうほど、義経公は「純粋」である。兄である頼朝公はそれに引き換え、なんと「不純」な事だろうか。現代に生きる後世の私は、その後の歴史を知っている。それ故にこそ結果から判断し、頼朝公の方をより評価し、好むものだが、同時代人だったとしたらどうであろう。鎌倉幕府の元首として、政治的判断で弟である「義経」「範頼」を殺し、その首を前に「悪は滅んだ」と呟く頼朝公を理解し、好きになれるであろうか。恐らく答えは否であろう。

義経という若者は、軍事的には100年に一度という天才だが、世知が殆どない。血を分けた兄である頼朝公のために働き、大戦果を収めたと言うのに、なぜその兄に疎まれ、挙句に殺されるのかを恐らく最期まで理解しなかった。実際には「奇蹟的勝利を呼ぶ天才」「頼朝公に並び立つ資格のある者」という義経を政敵(「日本一の大天狗」と頼朝が言ったと伝えられる後白河法皇)に利用させまいという純粋な政治的理由である。それが理解できないからこそ、義経は魅力的なのだが。だが、もし、頼朝公が兄弟の情けから義経公を助けたとしたらどうだったであろう。均衡政策をとるフィクサー後白河法皇に操られるまま、頼朝公と対立し鎌倉時代は成立せずに内乱が続いたかも知れない。

義経公のようなパーソナリティは往々にして多くの人に愛される。特に我々日本人は頼朝公や後白河法皇のような「不純な」政治家を嫌い、子供のような「純粋さ」をもつ人格を好もしく思うらしい。勿論、私も例外ではない。だが、「純粋」という言葉は何ともいえない危険な香りを持っている。昭和初期の青年将校は「純粋」ではなかったのか?日本赤軍の学生は「純粋」ではなかったのか?凶悪事件を起した少年たちを弁護する言葉に「純粋さ」が多用されてはいないだろうか?それを考えると(大げさだが)大河ドラマ『義経』がどのように世間に評価されるのか、また「源義経」という人物が思い出された時にどのように評されるのかに大いに興味がある。私はそんなふうに、多少「不純」に来年の大河ドラマ人気を考えている。
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by seagull_blade | 2004-12-25 14:17 | reading lamp
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教職員や執筆者・編集者を愚弄するつもりは毛頭無いが、教科書、特に国語の教科書と言うものは、卒業するとそのまま忘れてしまうようなものではないだろうか。試しに小中学校の国語の教科書に取り上げられていた物語や文章を思い出していただきたい。殆ど覚えていらっしゃらないのではないだろうか。私もご多分に漏れず、さっぱり覚えていない。強いて覚えているといえば、「平家物語」や「奥の細道」の冒頭、杜甫や李白の絶句や律詩など、定期試験の為に暗記したものだけである。当時はどちらかといえば得意ではなかったのに、現代文よりは古文・漢文の方が覚えていると言うのもおかしいのだが。古文や漢文の方が、朗読の為に創られたものなので、リズムが良くて、覚えているのかもしれない。

とは言うものの、現代文で殆ど唯一覚えている、教科書に掲載されていた小説がある。タイトルに書いたとおり、中島敦の『山月記』である。年次は忘れてしまったが、高校生の現代文の教科書に掲載されていた。国語担当の教師が非常に朗読が上手な男性教師で、一寸古いが『若山源蔵氏』のようなバリトンで朗々と読み上げていた。
「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く…」
よくあるパターンだが、授業はなかなか先に進まず、毎回イントロから朗読していたので、この冒頭だけはすっかり暗記してしまった。

先日、ふと立寄った本屋で「李陵・山月記」を新潮文庫で見つけて購入、久しぶりに再読してみた。国語教師の見事な朗読の所為も勿論あるが、高校生当時の私がどうしてこの小説に何某かの印象を受け、今まで覚えていたのだろうか。

中島敦は漢籍古典の翻案物を得意とした。西遊記の沙悟浄を主人公にした『悟浄出世』や、列子の寓話を下敷きにした『名人伝』などある。この『山月記』も李景の『人虎伝』のストーリーを使用した翻案ものとなっている。どちらの物語も、傲慢で才気走った「李徴(りちょう)」という役人が、職を辞した後、発狂して行方不明となる。かつての友人であり、同僚であった「袁傪(えんさん)」が、勅命で商於という場所を通りすぎる際に、虎に襲われかけたが、虎は直ぐに草むらに消え、人語を話す。「袁傪」はその声から虎がかつての友人「李徴」であることを知り、戸惑いながらも再会を喜び、虎に変身した事情を聞いて驚き、家族の後生を頼まれ、そして別れるというものである。

『山月記』は原作の『人虎伝』をほぼそっくりそのまま踏襲しているが、勿論、現代の小説家である中島敦は単純な物語にいくらかの手を加え、現代の読み手にも耐えうる深みを持った小説としている。原作では、李徴が虎に変身してしまった原因として、不義密通の天罰としているが、中島敦はこれを「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為」に求めている。狷介孤高な主人公李徴は若い頃、才能があるが故に尊大であり、多くの人には不愉快な人間だと思われていた。彼は「己は特別」だと思い込み、それ故に周囲を見下していた。その思い込みゆえに、「賎吏に甘んずるを潔しとしなかった」李徴は己の才能を偉大な詩人になることに向けた。

10代後半から20代前半あたりの学生時代に、「サラリーマン」という響きが、あまりにも「平凡」で先が見えているように思い込み、もっと特別で、華やかな職に就きたかったり、「普通でない」ものになりたくなる時期というものがあるのではないだろうか。李徴が偉大な詩人になりたがったように、ミュージシャンなりたかったり、或いはビル・ゲイツのようになりたかったりと。

だが、ここで多くの人は気が付く。己自身の才能がそれほどのものではないことを。そして、仮に才能があったとしても、大成功する為には運や度胸も大いに必要だと言うことも。そして、大部分の若者が「平凡」な何かへ成って行く。勿論、その平凡な何者かになることでさえ、それほど簡単ではないことも悟ってゆく。だが、李徴はプライドの高さ故、それさえもできない。彼は言う。「己の珠に非ざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の球なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。」と。その狂おしさが彼の姿を虎にしてしまう。

前にも記したが、私は割と勉強ができる方であった。スポーツも、さして運動神経が良い訳ではなかったが、中学時代は陸上部に所属して、校内で私より足の速い生徒は何人も居なかっただろう。喧嘩もまあ強いほうであったと思う。また、読書は子供の頃から好きだったので、同じ年頃の子供の間では、それなりに知識は多いほうであった。こうした子供が、増長慢にならない訳はない。こうした傲慢さは周囲には直ぐ伝わるから、周囲からは孤立していく。私の場合、喧嘩も出来たので、所謂「いじめ」には合わなかったが、やはり「浮いて」いた。周囲から距離を置かれれば、その分、周囲を見下すことでプライドを維持し、そうすれば更に傲慢になって孤立していく。だが、一方で、実は「俺がアホなだけなのではないのか。計測可能な才能では劣らないが、それ以外の部分でははなはだ劣るのではないのか。」という疑念もある。大学の前半まで、こんな調子であった。ここから脱することができたのは、当時の彼女や友人達のお陰である。

中島敦の『山月記』が私の記憶に唯一残る教科書の題材であるのは、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」に悩む李徴へ私自身を重ね合わせていたかららしい。周囲のお陰でどうにかこうにか平凡さを得た私は「狂える虎」にならずに済んだ。友人達や付き合ってくれた女性が差し伸べてくれた「手」を死ぬまで私は感謝しつづけるつもりである。
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by seagull_blade | 2004-10-23 16:51 | reading lamp
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「人は自分の見たい現実しか見ることができない」(ユリウス・カエサル)そんなことはない。見たくない現実も沢山世の中にはあるし、実際、認識してしまうではないか。否、むしろそのような現実の方が多いではないか。高校時分にカエサル(だったと思うのだが)のアフォリズムを呼んだ時に心に浮んだのはそんな反駁だった。また、10代後半迄の年代というのは結構正義感がつよく「偽善的」な物を見つけては反駁したがる年頃である。しかし、同時に10代とは、もっとも自己欺瞞の能力が強く発揮される年頃のような気がする。

あの頃にこの「春にして君を離れ」を読んだとしたら、「馬鹿な女だ。一面哀れでもあるがね。」などと嘯きながら、すぐに忘れてしまったに違いない。だが大した事は無いがそれなりに経験をし、若造ながらも30歳に手が届くというところで、この本を読み終え、大げさに言えば一種異様な感覚にとらわれた。ラストシーンの主人公の心の動きがあまりにリアルで、感動とも異なる・・・感覚、そう少しゾッとしてしまった。

ダイジェストを書くほどの文才は無いので、「春にして君を離れ」の簡単な粗筋を紹介すると『第2次大戦前夜、中年から初老の女性がバグダッドから英国に戻る旅の途中、砂漠で立ち往生に会い、有り余る時間の中で始めて自分自身と向き合う。そこで一種の回心(コンバージョン)があり、如何に自らが独善的で押し付けがましく、周囲の人間の意志を押さえつけて生きてきたかということを悟る。そして故郷で夫に再会すると・・・。』というような物語である。主人公の女性は「自分の考えが(常識に照らして)正しく、それ故に他人もそう考えるだろう」と考えがちなタイプである。著者はアガサ・クリスティだが、ミステリィではない。

当然の事だが、私達は自分自身の身体から抜け出て物事を知覚したり、理解する事は絶対にできない。この主人公の女性がしたように自分自身と向き合うことですら「自分」という枠組み、言い換えれば「実存」の中での出来事である。従って、真の意味で客観的に自分を知覚する(形容矛盾だ)ことも当然できないのである。さらに、我々には強力な自己欺瞞の能力が備わっている。冒頭のカエサル(多分)の言葉は10代の私が反駁したような底の浅い言葉ではないと思う。「見たくない現実だって見えてしまうではないか。」そうではなくて、現実と向き合ったときに知らずしらずにしてしまう自己弁護や、心の底から相手によかれと思って成したことや発した言葉も実はオナニズムを無意識に隠すための自らへの言い訳に人は気がつかないということなのではないだろうか。

実際、気が付いていない、或いは、気付きえない自己欺瞞は脇へ置くにしても、「無意識もしくは理性的には気がついているのだが、情動はそのことに気づきたくない為に、全体としては気がついていない事に後から気がつく事」は誰にでも起こるのではないだろうか。例えば、「あの時確かに、正しいと思って事を為した。しかし、失敗(不利益)の兆候は気がついていた(はずだ)。」と自問することは誰にでもあると思う。己を偽ることに気付かないような自己欺瞞は凡そ一般的に「正しい事」に則って自らが動いていると考えている際に最も強力に作用する。なぜなら、私達は自ら信じる常識や「正しい事」に照らし合わせ、そのギャップから自分の立ち位置を決めているからである。

そしてもうひとつ。縦しんば己の醜さやくだらなさに気が付いて、それを改めようと決意したとしてもそれはものすごく困難なことである。この物語の登場人物の一人に「聖人にはできたようだ」とアガサ・クリスティが言わせているように、常人には困難なことなのだ。反省などというが「反省」は過去を振り返ってこれからを改めるという意味ならば、それほど簡単なことではあるまい。たとえ、自らがこれからは変わろう(!)と決意したとしても周囲は勿論変わらない。本人の意思と周囲は無関係に存在するからである。そして当然周囲が、変わろうと決めた本人を以前全く同様に扱う中で、それに流されず変わることができるのか。クリスティはそれができたら「聖人」だと言っている。私は恥ずかしながら、聖人にはなりえない。いつも、失敗や自己嫌悪に陥った時に、これからは変わらなくてはと考えるが、結局暫くすると、元通りの自分を発見してしまう。

「春にして君を離れ」の主人公は相当にカリカチュアされているが、実際に自分が生きている中で、家族を含めて、他人にどう受け取られ、どのように影響を与えているかはわからない。決してわかることはありえないのである。それが他人の意思やひいては人生に最悪の影響を与えているとしても。その程度のニヒリズムを持って生きざるを得ないことを自覚することができれば、主人公ももう少し他人に興味を持つことができたのかも知れない。

もしも、自分の妻なり恋人なりが「無邪気な独善性」を大いに発揮するタイプだとしたら、どうなのだろう。愛なり子供なり世間体が介在していたとしたら、私はきっと主人公の夫のように、皮肉を偶にに交えながらも、その女性の独善に付き合ってしまうだろう。それが結果としてその女性を絶対の孤独に突き落とすことだとしても。悲しいことだが、こういったことでの己の無力さはよく知っているつもりである。

追記:
ningyo-hime様のブログ「人魚亭:人魚姫の冒険」(右下の「エキサイトブログ」にリンクがあります。)の記事で『春にして君を離れ』を知りました。その記事の中でコメントのやり取りからこの記事を書かせていただきました。ningyo-hime様、如何でしょうか?
興味深い本をご紹介いただきましてありがとうございました。何故か同僚の間で回し読みされています。
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by seagull_blade | 2004-08-06 21:47 | reading lamp

シャーロキアン。

a0012892_15326.jpg去年の年末、新潮文庫刊のシャーロック・ホームズシリーズを片端から読んでいた。シャーロック・ホームズはNHKのTVドラマでたまに観ていたが(先日、俳優の名が「ジェレミー・ブレット」であること、製作がグラナダTVであることを教えていただいた)、ミステリに余り興味が無かったからかさほど関心が無かったと思う。確か広川太一郎あたりのアテレコで犬のホームズアニメも放映していたのも手伝って勝手に「子供向け」と思っていた。(広川太一郎のアテレコは今思えばなかなかはまり役だったとは思うが)

社会人となってからミステリを読み始めた。阿刀田高・宮部みゆき・京極夏彦・大沢在昌からはじまって、高村薫・乃波アサ・森博嗣etc・・・。(まだまだ初心者)
さてお次はと本屋で物色し、以前から気になっていた「QED」シリーズを読んでみることに。著者は高田崇史(たかだたかし)。メジャーなのでご存知の向きには蛇足だが、博学強記の薬剤師が民俗学に絡んだ事件を解決していくというもので、京極夏彦の京極堂シリーズに微妙に近いが「QED」シリーズの方がより洒脱であると思う。

早速買い込んで当時出版されていたシリーズをあっという間に読破してしまった。その中で私が最も唸らせられたのは「QED-ベーカー街の問題」というシリーズ3冊目である。ネタ晴らしをしても仕方が無いので詳細は省略させていただくが、民俗学的なテーマの多いこのシリーズでシャーロック・ホームズを取り上げたこの巻は異彩を放っていた。この本を通して「シャーロキアン」なる言葉を知った不勉強な私だが、ともかくホームズ譚に触れてみるべく(そんな大げさなことではないのだが・・・)、新潮文庫でまず「緋色の研究」を購入してみた。実は中学生時分に購入したことがあると思うのだが、なんとなく読めずどこかに行ってしまった。なので余り期待せず読み始めたのだが、気が付いたら聖典(カノン)とシャーロキアンの間で言われているホームズ譚は一気に読み終えてしまった。だんだんと自分の中のホームズに形が出来上がり、感情を持つようになり読みながらホームズが登場すると一種安心感が出てくるようになる。本当に魅力的なキャラクターだ。

シャーロキアンとはシャーロックホームズ・ファン/マニアの総称で世界中にシャーロキアン・クラブがあるらしい。「QED」の受け売りだが、中でも「硬質のシャーロキアン」達はホームズを実在の人物同様に捉え研究しているとのこと。ホームズ譚はアガサ・クリスティが指摘している通り矛盾も多いのだが「硬質の」方たちは、「ワトソン博士の書き間違いだ」としたり、「何か隠された意味があるのではないか」と研究したりしている。

シャーロック・ホームズシリーズを読んで「シャーロキアン」達の気持ちが少しだけわかった。「QED-ベーカー街の問題」で主人公がフィクションを研究してどうするのかという問いに対して「シャーロキアン達は虹を追っているんだよ」と答えたセリフがとても洒落ていた。QEDとホームズは、私にとって幸福な読書の連鎖であった。
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by seagull_blade | 2004-05-31 15:04 | reading lamp
a0012892_135034.jpgよく本を一冊もってBARや居酒屋に足を運ぶ。読書のスペースとして酒場はそんなに悪くないと思う。私の場合は、「活字が読めなくなったら引き上げ時」で飲みながら読書している。そんな中で興味深い本などを紹介するカテゴリを、このページを読んでいただく読者諸兄姉へ多少の参考になれば、と考え「reading lamp」を追加した。
(一人称を「筆者」とすると混乱するので「reading lamp」では「私」とします。)

学生時代、評論めいたものは散々読み漁ったので最近はすっかり小説などが多かったのだが、このブログサービスで利用させて頂いているEXCITEジャパンの「週間エキサイト-エキニュー総研-」で小浜逸郎氏のインタビューが紹介されており、読んでみたいと考えていた。先日紀伊国屋書店で見つけたので早速購入し、居酒屋へ。

「誠実な男性論」というのが第一の感想。私は不勉強のため、ジェンダー系評論は正直「下らない」と一刀両断したくなる文章しか読んだことが無かった。だが小浜氏の論考は飛躍も無く、私の皺の少ない脳でも十分に分析やその伝えたいところを理解することが出来た。

フィリップ・マーロウではないが「男は強くなければ・やさしくなければ」という一種の呪縛に私は囚われている。かつて読んだジェンダー関連の書籍では「そのような呪縛は幻想だ!克服しなくてはならない。」という主張が大勢であった。

別段、私はマッチョ的な男性像を正としている訳ではない。しかし、ある程度の「男らしさ」や「大人としての振る舞い」は、世の中或いは女性から要請されていると思う。また、理由は判然としないが、男らしさを発揮することは「正しい」という感覚が私にはある。
そういったもやもやとした「不安」に小浜氏はそれなりの形を与えてくれる。

私が思う本書の白眉は、竹中英人氏の『男は虐げられている』を引用してそれに対する反駁、むしろ大人として諭す部分だ。竹中氏は20代らしいのだが、「恋愛は女性が男性から搾取するシステム」と主張している。私自身たいしてもてないし、振られてばかりだからこうした主張になるのはわからないではない。凡そ、20代での恋愛はバブル期に流行った「アッシー・メッシー」よろしくそのような形を取りがちだ。竹中氏の主張はそうした中から出てきた恨み辛みとも取れる。これに対して小浜氏は「そういう構造になっているからだとしか言いようがないのである。要するに、これはある程度まではしょうがないとあきらめるしかないのだ。」と回答している。そうした構造を男の側が支えている部分は決して小さいものではないし、それを忘れるわけには行かない。と、小浜氏は主張しておられる。

この書評めいたもので全てを引用するわけには行かないから、読んでいただくしかないのだが、小浜氏の回答は十分に誠実である。私もこの説明を読んで納得できた。小浜氏の主張は「父権主義・男根主義」というテーゼと「フェミニズム・ジェンダーフリー」というアンチテーゼに対して「ジンテーゼ」を与えようとする試みだと私は思う。そうすることでしかヒステリックに叫んだり、陰湿にいじけて見せたりする惨めな態度を改めることはできないのではないだろうか。我々「男」は。
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第1章 「男らしさ」は必要なくなったか
第2章 いつ「男」になるのか
第3章 男にとって恋とはなにか
第4章 「中年」と「父親」をどう乗り切るか
結論に代えて―体験的視点から
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by seagull_blade | 2004-05-27 13:51 | reading lamp