『THE IDENTITY GAME』 |
2004年 08月 12日 |

「全ての理屈は灰色さ。生命の黄金の輝きだけが緑なのだよ。」これはたびたび引用する悪魔メフィストフェレスの言葉である。ゲーテの『ファウスト』では、あらゆる学問を修め、それでも「何かを知りえた」気になることが出来ないファウスト博士にメフィストフェレスは冒頭の言葉を優しく投げかける。そう、恋や愛の中の陶酔を知っているか?肉の悦びを知っているのか?官能が学問なんぞで理解できるのかと。勿論、ファウスト博士は知らない。彼はそれまでの人生を学問に費やしたのだから。「全ての学問を修める」ような男が官能を追求している暇があるはずが無い。そして彼は官能の中に溺れてしまう。どのような本を読んだとしても、どのような師と対話しようとも、官能の何たるかなど知りえるはずもない。何も知らない男を染め上げるのは簡単なことだ。ファウスト博士はメフィストフェレスと『博士が満足したと言うか』という賭けをするのだが、当然、最初から勝ち目は無かったのだ。別にメフィストフェレスのような大悪魔でなくとも、極論すれば著者にだってこんな賭けには勝つことが出来そうである。
「本当の自分探し」少し前に流行った言葉だと思っていた。だが、今でも「自分らしい」「自分らしく」などという言い回しをよく見聞きすることから考えると、さほど一過性の流行ではないらしい。それはそうであろう。著者には「自分探し」がメフィストフェレスの言葉の変奏曲に思える。どこまでも自足しない自己肥大の欲望に対して「もっと肥大して良いのだよ。そうすれば更なる悦びが見出せるだろう。その悦びの中にいる君が本当の君なのさ。」しかし、誰にでも自戒はある。
「これ以上欲望を追求してはいけない。それは、どんなものかは解らないけれども一種の破滅への道である。だから、どこかで自足せねばならないのだ。」
「確かにそうだな。そんな難しい言い方をしなくても、そりゃ遊びすぎれば金も無くなるし、性欲が暴走すれば犯罪者になっちまうよ。でもさ、お前の周りを見てみろよ。楽しそうな奴は沢山いるじゃないか。」
「いや、彼等/彼女等は才能があるとか、運がよいとか何かしらの者に恵まれているんだよ。仕方がないじゃないか。」
「仕方が無い?それは逃げ口上だな。例えばテレビの中ではしゃぎ回って、しかもそれで金を稼いでいる連中を考えてみろよ。お前とあいつ等との間にどんな差があるっていうんだ? 顔? 今は多様性と個性の時代だよ。不細工であることを消費されている連中なんかいくらでもいるじゃないか。それでもお前さんよりは楽しく生きているだろうし、金も稼いでいるよ。実際、お笑いの連中に顔の良いのは少ないけれど、彼等は結構もてるよ。頭だって、お前さんの方が高学歴なんだし、難しい話だってできるじゃないか。」
「それなら、なぜ彼等・彼女等の方が楽しそうなんだ?差が無いというなら、おかしいじゃないか。やっぱり、それは何か特別な才能や運だと思うよ」
「…。あのねえ、俺は天才の話をしているんじゃないんだ。俺たち凡人の話をしているんだよ。奴等の方が上手くいっている理由?簡単じゃないか。自己実現だよ。自己実現。誰の中にでもある、可能性って奴さ。自分の中の可能性を否定したって始まらないじゃないか。奴等はお前さんよりほんの少し、それを伸ばしただけだよ。そう、もう少し『自分らしく』振舞っただけさ。」
「話がそれているよ。欲望の自足と『自分探し』に何の関係があるんだ?」
「だから駄目なんだよ。お前さんの言う自足を知るのは大事なことだが、今言った奴等は許されているじゃないか。金も稼いでいるじゃないか。あいつ等程度の『自分らしさ』が手に入れば、お前さんだって、稼ぎながら楽しく生きていくことができるのさ。」
こうして自戒は破られていく。単に「隣の芝生は青く見える」だけなのに。「本当の自分」という理想化された自分を探すことが、「自分らしさ」を生み出し、そうすれば楽しそうな他人と同じになれると思い込む。「地獄の入り口は何処にだってある」(メフィストフェレス)のに。それこそ、誰でも本能的にそれを避けて生活している。官能の悦びの傍らには、愛欲の地獄が控えているし、華やかな世界には必ずその華やかさ度合いにふさわしいネガの世界が待ち受けている。そして「自分探し」は何処にも存在しない「本当の自分」を探し回るという、無間地獄に陥るのだ。ひたすら「本当の自分」といいながら、それを仮託した他人を羨望しながら。
メフィストフェレスは嘲笑うだろう。「ははは。人間のなんと変わらないことよ。」と。
忘れてはいけない。メフィストフェレスは魅力的だが悪魔なのだ。自問自答の相手が、自らの心に創り出した悪魔でない保証は何処にも無い。そうしたものを相手にしたところで、目をふさがれるだけで、何も見えたりはしない。「自分探し」が無限的自己肥大の欲望の肯定としてしか使われない言葉だと気が付かない限り。そんなに簡単に「自分」というものが把握できるのならば、誰も本など書かないし、学問や宗教も成り立ち得ないだろう。
(西洋的)学問はかつてギリシアで始まった。「世界とは何か」「神とは何か」「自分とは何か」これらの事への飽くなき探求が現代の(科学や文学も含めて)学問を生み出した。そして「自分とは何か」という命題は未だに有効である。宗教もそれに答えようとしてきたし、現代思想は未だに悪戦苦闘している。生物学も「AGCTの塩基配列だ」等と嘯いてはいるものの、それだけでは全く説明になっていないことぐらいは自覚している。心理学は存在論との比較において「自分とは何か」という説明は出来ない。そう、これは本当に難問なのである。安易に答えを求めても無駄である。
Mephistopheles:ギリシア語。「愛してはいけない光」「光を愛さない者」の意。
by seagull_blade | 2004-08-12 15:27 | philosophism




