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by seagull_blade

「春にして君を離れ」(アガサ・クリスティ:各社刊)

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「人は自分の見たい現実しか見ることができない」(ユリウス・カエサル)そんなことはない。見たくない現実も沢山世の中にはあるし、実際、認識してしまうではないか。否、むしろそのような現実の方が多いではないか。高校時分にカエサル(だったと思うのだが)のアフォリズムを呼んだ時に心に浮んだのはそんな反駁だった。また、10代後半迄の年代というのは結構正義感がつよく「偽善的」な物を見つけては反駁したがる年頃である。しかし、同時に10代とは、もっとも自己欺瞞の能力が強く発揮される年頃のような気がする。

あの頃にこの「春にして君を離れ」を読んだとしたら、「馬鹿な女だ。一面哀れでもあるがね。」などと嘯きながら、すぐに忘れてしまったに違いない。だが大した事は無いがそれなりに経験をし、若造ながらも30歳に手が届くというところで、この本を読み終え、大げさに言えば一種異様な感覚にとらわれた。ラストシーンの主人公の心の動きがあまりにリアルで、感動とも異なる・・・感覚、そう少しゾッとしてしまった。

ダイジェストを書くほどの文才は無いので、「春にして君を離れ」の簡単な粗筋を紹介すると『第2次大戦前夜、中年から初老の女性がバグダッドから英国に戻る旅の途中、砂漠で立ち往生に会い、有り余る時間の中で始めて自分自身と向き合う。そこで一種の回心(コンバージョン)があり、如何に自らが独善的で押し付けがましく、周囲の人間の意志を押さえつけて生きてきたかということを悟る。そして故郷で夫に再会すると・・・。』というような物語である。主人公の女性は「自分の考えが(常識に照らして)正しく、それ故に他人もそう考えるだろう」と考えがちなタイプである。著者はアガサ・クリスティだが、ミステリィではない。

当然の事だが、私達は自分自身の身体から抜け出て物事を知覚したり、理解する事は絶対にできない。この主人公の女性がしたように自分自身と向き合うことですら「自分」という枠組み、言い換えれば「実存」の中での出来事である。従って、真の意味で客観的に自分を知覚する(形容矛盾だ)ことも当然できないのである。さらに、我々には強力な自己欺瞞の能力が備わっている。冒頭のカエサル(多分)の言葉は10代の私が反駁したような底の浅い言葉ではないと思う。「見たくない現実だって見えてしまうではないか。」そうではなくて、現実と向き合ったときに知らずしらずにしてしまう自己弁護や、心の底から相手によかれと思って成したことや発した言葉も実はオナニズムを無意識に隠すための自らへの言い訳に人は気がつかないということなのではないだろうか。

実際、気が付いていない、或いは、気付きえない自己欺瞞は脇へ置くにしても、「無意識もしくは理性的には気がついているのだが、情動はそのことに気づきたくない為に、全体としては気がついていない事に後から気がつく事」は誰にでも起こるのではないだろうか。例えば、「あの時確かに、正しいと思って事を為した。しかし、失敗(不利益)の兆候は気がついていた(はずだ)。」と自問することは誰にでもあると思う。己を偽ることに気付かないような自己欺瞞は凡そ一般的に「正しい事」に則って自らが動いていると考えている際に最も強力に作用する。なぜなら、私達は自ら信じる常識や「正しい事」に照らし合わせ、そのギャップから自分の立ち位置を決めているからである。

そしてもうひとつ。縦しんば己の醜さやくだらなさに気が付いて、それを改めようと決意したとしてもそれはものすごく困難なことである。この物語の登場人物の一人に「聖人にはできたようだ」とアガサ・クリスティが言わせているように、常人には困難なことなのだ。反省などというが「反省」は過去を振り返ってこれからを改めるという意味ならば、それほど簡単なことではあるまい。たとえ、自らがこれからは変わろう(!)と決意したとしても周囲は勿論変わらない。本人の意思と周囲は無関係に存在するからである。そして当然周囲が、変わろうと決めた本人を以前全く同様に扱う中で、それに流されず変わることができるのか。クリスティはそれができたら「聖人」だと言っている。私は恥ずかしながら、聖人にはなりえない。いつも、失敗や自己嫌悪に陥った時に、これからは変わらなくてはと考えるが、結局暫くすると、元通りの自分を発見してしまう。

「春にして君を離れ」の主人公は相当にカリカチュアされているが、実際に自分が生きている中で、家族を含めて、他人にどう受け取られ、どのように影響を与えているかはわからない。決してわかることはありえないのである。それが他人の意思やひいては人生に最悪の影響を与えているとしても。その程度のニヒリズムを持って生きざるを得ないことを自覚することができれば、主人公ももう少し他人に興味を持つことができたのかも知れない。

もしも、自分の妻なり恋人なりが「無邪気な独善性」を大いに発揮するタイプだとしたら、どうなのだろう。愛なり子供なり世間体が介在していたとしたら、私はきっと主人公の夫のように、皮肉を偶にに交えながらも、その女性の独善に付き合ってしまうだろう。それが結果としてその女性を絶対の孤独に突き落とすことだとしても。悲しいことだが、こういったことでの己の無力さはよく知っているつもりである。

追記:
ningyo-hime様のブログ「人魚亭:人魚姫の冒険」(右下の「エキサイトブログ」にリンクがあります。)の記事で『春にして君を離れ』を知りました。その記事の中でコメントのやり取りからこの記事を書かせていただきました。ningyo-hime様、如何でしょうか?
興味深い本をご紹介いただきましてありがとうございました。何故か同僚の間で回し読みされています。
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by seagull_blade | 2004-08-06 21:47 | reading lamp