Have a life outside of work.


by seagull_blade

エチカ。(倫理の問題)

a0012892_13384768.jpg
スピノザの著した『エチカ』は、哲学科の適当な学生時代に「哲学演習」なる授業で、ちらっと読み、そして退屈して、単位が取れる程度の勉強をしていた。『エチカ』とは英語のEthicsから解るようにラテン語で『倫理・倫理学』を意味する。ボンクラ学生の頭ではその内容も読取ることが出来なかったし、絶対知やら神やらと「倫理(エチカ)」という言葉の間の関連性もうまく読取れなかった。結局それから『エチカ』を開いたことはない。

このところ、倫理というか、道徳と言ったらよいのか、ともかくそうした事をつらつらと考えていることがある。マスコミに登場する事件や諸問題(マスコミが問題化しているもの)の多くが、このETHEICSに関るものであるような気がするのである。

倫理・道徳と言われて、すぐに連想するのは、小学生時分に見せられた「道徳」の時間のビデオ教材だったり、陳腐な説教臭い物語だったりするかもしれない。少なくとも筆者はそうである。小学生向けの教材というのは一寸早熟な児童にとっては、「馬鹿馬鹿しい」と感じられることが多いと思う。また、教師は教師で、道徳の時間と言うものをどう扱っていいかわからず、国語の授業で代替するなど、結構軽視していることもある。児童や生徒は教師の力の入れ具合など簡単に見抜くから、ますます、『道徳』という授業と言葉が陳腐化する。

しかし、現在(2005年3月)、メディアで話題となっている、「某鉄道会社を中心としたグループ元会長」やら「新興IT関連企業と古参テレビ局の対立」やら「中東からの自衛隊撤退」やら「北朝鮮問題」など、ETHICSに関らない問題はないと思うようになった。なるほど、それぞれは、構造的な問題であったり、法律の不備であったり、国際情勢・外交の問題であろう。直接の当事者達は、色々な形で関るであろう。損得であったり、逮捕拘留であったり、国際政治であったりするのだろう。しかし、ニュースとして受け止める我々や直接の当事者でない人々(IT企業VS テレビ局における元首相など)としてはこれらのニュースを感情的側面で受取らざるを得ない。「どちらに理がある」「どうすべきだ」「ひどすぎる」etc…。

個人が持たざるを得ないこうした感情の動きに関る問題、また当事者にとっても根本的な問題である感情、そうした問題を扱う学問を倫理学(ethics // moral philosophy // moral science)と呼ぶ。誤解を恐れずに言えば、心理学の前身的な部分もある。

例えば、新興IT関連企業の某社長が別段違法な方法で会社乗っ取りを図った訳でもないのに、マスコミ上で非常に感情的な問題となっているのは、恐らく倫理学の範疇の話である。今朝(3/3)のワイドショーでコメンテーターが「彼の言っているのは資本主義のホンネですよね。でも、(世間は)それだけじゃないんだという事です。」と言っていた。この「それだけじゃない」部分、これは倫理に関る問題だということの別の表現であるだろう。世間を構成する我々であれば誰もが解っている事だが、「新興成金が本音を剥き出しに喋ると目障り、耳障りだ。やるのなら、礼儀をわきまえた服装・言葉遣いでやりたまえ。」と。

その批評・批判は全く本質的ではない。彼らの業務とも、法的な問題とも、金銭的な問題とも何のかかわりも無い。そんなことは誰でも解る。言っている当の本人だって充分解っているのだろう。しかし、何かが引っかかる。当事者が彼の感覚からしてみれば「若い」ということ、それでいて全くマスメディアの大好きな「庶民」でも無ければ「若者」でもない。それに対する嫉妬。そして、世代間の対立を煽るような発言が、彼とその背景にいる世代が心の中で感じている「グローバルスタンダード」なる物への引け目を刺激すること。これらの事を某社長は明確に言う。そこで彼は「金(=力)があるのはよい。その力を行使するのもよい。だが、もう少し、私の感情を逆なでせずにやってくれ」と思うのだろう。

この感情の問題は小さな問題ではない。少なくとも筆者はそう思う。古来、あらゆる意味でのPOWER(=力・暴力・権力・財力)を持った人々が直面した問題である。アテネのペリクレスもローマのカエサルも、世間とどのように折り合うのかと言う問題と真正面から取り組んだ。どこまで世間や大衆が許してくれるのか。どうすれば喜ぶのか。世間にとって何が善で、何が悪なのか。それは自分たちの持つ善悪の判断と異なるのか。そうした諸々の感情や感覚を体系化しようとする試みが倫理学であり、体系化し得たと信じたのが宗教であったと筆者は考えている。

意識的な宗教基盤が薄れ、殆ど意味を失ってしまった現在の本邦に於いて、倫理と道徳の指針となるものはなかなか無い。一応マスメディアは『庶民感情』などと言うものを造りだし、代用しているが、受け手である我々とて、それは我々に阿っているだけであることくらい見抜いている。それでは、どこにその指針を見出せばよいのだろうか。

またしてもマキアヴェッリに触れるようで恐縮だが、『君主論』は倫理から政治やリーダー論を独立させて考えたことによって、返って倫理を浮かび上がらせていると筆者は考える。倫理とは単なる善悪の問題ではない。

某IT企業の社長の振る舞いは、告白すれば筆者は決して嫌いではない。だが、同時に『君主論』の一節を思い出さずには居られなかった。

「君主は様々な善なる性質を持っている必要はない。だが、それを持っていると人々に思わせることは必要である。」(君主論)
[PR]
by seagull_blade | 2005-03-03 13:39 | philosophism