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by seagull_blade

武士道。(Soul Of Japan ≠ Samurai Soul)

このところ、更新頻度が非常に落ちているにも関らず、アクセス数はずっと変わっていない。楽しみにして頂いている方がこれほどいらっしゃるのかと思うと本当に心苦しい次第である。是非とも時間を作って更新しなくてはと思いながら2週間以上経ってしまった。お待ちいただいた読者諸賢にはお詫び申し上げると共に、今後も気が向いたら、是非覗きに来て頂くことをお願い申し上たいと考えている。

居合などの古武道を嗜むと、「侍」や「武士道」という言葉をよく耳にする。特に武士道という言葉は、武道関係者からではなく、友人や周囲の特に武道や武術と縁のない方々から聞くように思う。2003年に公開された映画『ラスト サムライ(The Last Samurai)』や『たそがれ清兵衛』、或いは大河ドラマ『新撰組!』等で、一種ブームとも言うべきものとなっている。こうした流れを「右傾化」とか「ニッポン万歳」という向きもあるが、そうしたことはさて置き、「武士道」という言葉について思うところを述べてみたい。
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『ラスト サムライ』の主演トム・クルーズもインタビューにて「新渡戸稲造の『武士道』は何度も読んだ」と述べているが、「武士道」という言葉で最初に思いつく参考書の一つに、旧5000円札の肖像画で知られる、新渡戸稲造の『武士道』が挙げられるだろう。よく知られているように、新渡戸『武士道』は本来、イギリスやアメリカを中心とした欧米に対して、日本の道徳を紹介するという趣旨で書かれ、原題は「Bushido ,The Soul of Japan」という英文である。筆者も一読したが、現代の我々が考える武士道の徳目が網羅されているように思う。裏を返せば、新渡戸の『武士道』という著作が我々の武士道についてのイメージをある程度決定しているとも言えるだろう。

もう一つ、著名な書を挙げるとすれば、山本常朝の『葉隠』であろうか。九州佐賀の鍋島藩士、山本常朝が鍋島藩士の為に侍としてのあり方、心構えを口述したものをまとめたもので、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」というフレーズがよく知られている。三島由紀夫によって「葉隠入門」が書かれ、よく右翼的思想と結び付けられる書籍であろう。尤も三島由紀夫が単純に「右翼」という言葉で片付くような男ではないと筆者は考えているのだが。

さて、筆者はこの「武士道」という言葉には愛憎両端な感覚を持っている。狂的な右翼のイメージ或いは、それらの言動の後ろに、頻繁に引用される言葉であることから、「押し付けがましい道徳」「時代錯誤的道徳」という感覚がある。その一方、現代日本という恵まれた環境に生きる我々にとって、どこか名状し難い魅力があると筆者には感じられる。この「名状し難い魅力」というのはどこから来ているのだろうか。

新渡戸稲造の著作『Bushido ,The Soul of Japan』は、「キリスト教やイスラム教というような宗教的な規範、倫理基準の無い日本で、どうやってモラルを育てているのか?」という西洋人の問いに対する答えという側面があると筆者は考えている。現在においても、religionの項目に「無宗教」と答える日本人に対して、「神(GOD)が存在せずにどうやって善悪の判断をするのか?」という素朴な問いが問題になることがある。新渡戸はその問いに、「日本には武士道という倫理規範がある」と極めて単純化して言えば答えた。

しかし、普通に考えれば、「武士道」というのは武士という階級の規範・倫理であるはずで、日本全体に一般化して語ることは無理のあるものである。士農工商とはいうが、「農工商」にあたる8割以上の人間が守るべき規範であったかというと、決してそのようなことは無い。「喧嘩両成敗」にせよ「切腹」にせよ文字通り「死」がその規範のバックボーンとしてあるものが、日本において一般的な規範になり得るとは思えない。やはり、新渡戸は南部藩の武士として生を受け、当時を代表する知識人であった新渡戸にとって、武力においても文化においても圧倒的(と思われた)欧米列強に伍する為に、日本国民の規範がどうしても欲しかったのであろうと思う。その中で、儒教でもなく、神道でもなく、武士道をその規範に置いたのは、騎士道精神というものを持つ西洋人に対して最も説明しやすい概念だったのではないかと思ったりもする。本当の意味での「武士道」は武士階級が滅びたと同時に滅びたのである。

『葉隠』の言葉ではないが、戦場を駆け回り、人を殺す事が商売であり、泰平の江戸時代にあっても建前上はそうであった武士という存在は、当に生死を賭けることが、己の存在を証明する手段という特異な精神状態を常に保持する為の倫理を持っていたと筆者は考える。居合の稽古などで真剣を構え、それを腰に帯びると、なんとも表現の仕様の無い緊張感がある。脇差であろうと長刀であろうと、一度、肌に刃が触れれば、肉を切り裂き、血が吹き出る。そういうものを常に腰に帯びている武士が生きていくための規範は、異常なまでの緊張感と、ある種の居直りの中にあったのではないだろうか。

文字通り「クビ」が「斬首」を意味し、「切腹」が「刃を腹につきたてて死ぬ」という世界に置いて、己の精神を正常に保つ為には「死ぬ事と見付けたり」と居直り、姿勢を正すより他に無かったに違いない。「生死を賭けて己の存在を問う」このような異常なまでの緊張感の中で練られた精神の残り香が、現代に生きる我々をも魅了する魅力を未だ保っているように思う。繰返しになるが、武士と共に「規範」としての武士道は滅んだ。残り香としての武士道は「美学・ダンディズム」として存在するしかない。しかし美学であるが故に細々としかし綿々と魅力だけは生き続けている。
by seagull_blade | 2005-02-14 21:21 | philosophism