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Have a life outside of work.


by seagull_blade

1599年ローマにて

その日、かつてハドリアヌス帝廟として建てられ、政治犯の牢獄であったカステル・サンタンジェロに通じる橋、ポンテ・サンタンジェロには、執行される処刑に多くの人々が集まっていた。処刑されるのは3人だったが、群集が見たかったのは、美女の誉れ高いベアトリーチェであった。罪状は「殺人」それも「親殺し」である。
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彼女の父親はフランチェスコ・チェンチという名であった。小鳥と語らったという優しい聖フランチェスコの名を持ったにも関らず、このイタリア貴族はサディストであったらしい。チェンチ一族はローマの名門に属する貴族で、相当な資産家であった。フランチェスコは往時のイタリア貴族にありがちな放蕩者で、家庭においては典型的な暴君タイプであったという。彼には5人の息子と2人の娘があった。

イタリアにおいては、現在でも姿かたちで貴族であるか否かが大まかに判るほど、貴族と非貴族の容姿が違う。美女を集め、北方のドイツや北フランスといったサクソン系の人種と混合が進んだ貴族たちは、一般的にそうでないものに比べて背が高く、容姿も優れている。とりわけチェンチ一族は美形の家系だったのかも知れない。

2人の娘のうち、妹のベアトリーチェは幼少時から美しかった。14歳、当時では結婚してもおかしくない年頃になると、輝くばかりの美少女に成長した。彼女は幼い頃から父親の暴力の下で育ち、早くどこかに嫁いで、一刻も早く地獄のような家庭を去りたいと考えていた。そのための条件を彼女は完璧に備えていたに違いない。(少々、情緒不安定で暴力傾向があるとは言え)有力貴族を父に持ち、花のように美しい彼女には、求婚者も多く居ただろう。しかし、彼女の願いは実現しなかった。

彼女の姉が嫁ぐとフランチェスコの精神状態は更に不安定になり、ますます暴力性向を強めていった。フランチェスコにはルクレッツィアという後妻がいたが、彼女でさえも堪えられないほどになっていた。ベアトリーチェは既に家を出ている兄たちに助けを求める手紙を出したが、それをしったフランチェスコは激怒し、狂気の中の孤独に耐えかねたのかもしれないが、己の宮殿の一室にベアトリーチェを監禁してしまった。そして腕ずくで純潔を奪った。

ベアトリーチェは堪えるのをやめた。それまでは、「それでも父親だ」という思いがあっただろうが、辱められたことでそれさえも吹き飛んだ。そして継母ルクレッツィアと兄たちと共にこの暴君を取り除くことを決意した。2年間陵辱に耐え、機会を伺っていた。

手筈はこうである。家来の二人に金を握らせ、父親に阿片を飲ませる。阿片はダウナー系の麻薬である。仮に目を覚ましたところで、意識は朦朧とし、抵抗することは出来ない。更に継母と共に棒(火箸)で刺し殺す。更に偽装工作として寝室の窓から死体を落す。例によって錯乱した父親が勝手に窓から転落死したことにする為に。そしてその通り実行した。

しかし、この偽装工作は上手くいかなかった。他殺であるのは明らかであるからだ。鋭い大針はフランチェスコの眼から脳を貫き通し、いくら引き抜いたところで、その大穴は隠しようがなかった。また、資産家であったこともマイナス材料であった。この種のスキャンダルは一家を取り潰し、財産を没収する為の格好の口実であったからだ。

ルクレッツィアとベアトリーチェ、そして実行犯うちの一人は捕らえられ、厳しい尋問と拷問に掛けられた。当時の警察機構は、魔女狩りに代表される異端審問に見られるようにどうしようもなくサディスティックなものであった。それでもベアトリーチェは最後まで無罪であることを主張し続けた。市井の民は彼女たちが行った事が正当防衛であることは判っていたが、裁判所の出した結論は「斬首刑」であった。

その時の彼女は、命乞いをすることも無く、辛すぎた人生を早く終わらせたいかのように毅然とした態度で断頭台に消えた。このときベアトリーチェは16歳であったという。



近頃、性犯罪のニュースをよく耳にする。使いたくないが「外道」としか言い様の無い犯罪が多いと筆者は思う。カマトトぶるつもりは無いが、抑制の効かない外道が多すぎる。

やりきれない思いはいつの世も変わらない。400年間、我々男たちは大きな進歩を遂げていないらしい。少なくとも、生物学的には。

ゴルドシュミットの「歌劇:ベアトリーチェ・チェンチ」を聴きながら、そんなことを考えた。

筆者に出来ることは、被害者の救済とまた亡くなられた方のご冥福を祈る事だけである。この無力感はどうしようもない。
by seagull_blade | 2004-12-10 15:21 | philosophism