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Have a life outside of work.


by seagull_blade

源流。

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武御雷大神(タケミカヅチノオオカミ)・経津主大神(フツヌシノオオカミ)。日本神話に出てくるこの二柱を聞いた事がおありだろうか。筆者は『武御雷』はどこかで聞いた事があるが、『経津主』は知らなかった。千葉県や茨城県在住の方ならご存知かも知れない。この二柱はあちこちで分詞されているが、それぞれ「鹿島神宮」「香取神宮」の主祭神で、日本神話では武神として崇敬されている。「鹿島神宮」のタケミカズチ(武御雷大神・武甕槌大神とも)は出雲の国譲りの際に、大国主命の息子の一人である事代主を退け、もう一人の息子、武御名方神と戦いこれを従えた武神と言われている。武御名方との戦いは力比べであったとされ、この戦いが相撲の源流という説もあるらしい。「香取神宮」のフツヌシはやはり出雲国譲りの際にタケミカヅチに同行し、大国主以下を平らげた武神である。古事記ではタケミカズチとフツヌシは同一の神であるとされており、何れにせよ、出雲を平らげ葦原の中つ国を平定した武神である。

この二柱は現在では春日大社へ勧請され、全国の分社で祭られているが、源流はやはり茨城の鹿島神宮と千葉の香取神宮だそうである。そして、この二柱から日本の武術は生まれたという伝説がある。鹿島にせよ、香取にせよ、本邦古武術のルーツであるらしい。実際はともかくとして、そのように信じられてきた。

古武術はこの二柱の神術から生まれ、日本武尊、時代は下って、源義家(八幡太郎)・為朝(鎮西八郎)・義経(九郎判官)を経て鹿島の神人(じにん:神社の下級職)へと伝えられたという。源義家は「鷲のすむ山には,なべての鳥はすむものか。同じき源氏と申せども,八幡太郎はおそろしや」といわれ、石清水八幡宮で元服、前九年の役・後三年の役の動乱で勇名を馳せた伝説的武人である。為朝はその義家の八男であり、保元の乱では崇徳上皇に従って戦った弓の名手。彼の弓は滝沢馬琴の「椿説弓張月」という伝奇物に、殆どミサイルのような描写をされるものである。弓を射れば、敵艦が真っ二つというのだから、山田風太郎も真っ青である。義経は勿論、本邦の代表的悲劇人であり、歴史的にも戦争には非常に強い武将である。能にも描写されているが、幼少時、牛若丸として鞍馬山の大天狗に武術を仕込まれたという。(ちなみに現在でも鞍馬流という剣術は残っている。警察逮捕術は鞍馬楊心流から生まれたものであるらしい)この鎌倉源氏たちから、鹿島の神人へ伝わり、シントウ系(神道・新刀・新当)の流派が生まれたと伝えられている。天真正伝香取神道流や鹿島神道流がそれであり、一刀流や筆者の習う水鴎流もこの系譜の中にある。

日本の古武術は、ごくごく大雑把に、かつ誤解を恐れずに言うと、「神道系」と「禅宗系」に分けられるという。ここまで記してきたのは勿論「神道系」の流れである。

上泉信綱(新陰流)を境に、本邦剣術の三源流と呼ばれる「新当流」「陰流」「念流」が生まれている。陰流は念流の流れを汲むらしい。この念流が禅宗系の祖と呼ばれるものである。流祖は念阿弥慈音(ねんあみじおん)という。新田義貞の臣、相馬四郎左衛門忠重が敵に謀殺された時、難を避けて藤沢の遊行上人に預けられて念阿弥(浄土系)として育った相馬四郎忠重の子が、長ずるに及んで鞍馬山などで兵法修業に励み、還俗して相馬四郎義元と名乗り父の仇を討った。のち再び仏門に入り(ただし今度は禅宗)、念大和尚と名乗った。この寺が、鎌倉寿福寺であり、中条流の祖、中条兵庫助に刀槍術を教えたとされている。寿福寺は臨済宗の寺であるので、禅宗系の剣術の祖と見られている。実際には殆ど伝説であるだろう。

なお、神道系の剣術がタケミカズチまで溯るに対して、この禅宗系の剣術は摩利支天に溯るらしい。摩利支天はインドの風または炎の女神で、マリシあるいはマリーシュと呼ばれる三面六臂の神である。念阿弥慈音はこの神に祈り修行することによって「念流」の開祖となったという。摩利支天は、日本に置いてはインド武術の祖と信じられていたようである。

これらは勿論、ある種の神話である。歴史的事実も勿論あるだろう。しかし、タケミカヅチや摩利支天、鹿島の神人達、鞍馬山の天狗や鬼一法眼等は、何がしかの事実はあるだろうが、それら事実を反映した伝説だろう。ただ筆者は居合や武術一つとっても、これほど豊潤な伝説や歴史があることを少しだけ紹介したかっただけである。自分が刀を振るう時、神々を思い、先人を思うことはそう悪くはあるまいと思う。

また、彼等に思いを馳せて旅をしたり、近所の神社仏閣を散歩する時にも、少し異なった思いで行くことができるかもしれない。筆者の場合、子供の頃から八幡宮が側に在った。引っ越した現在でもやはり別の八幡宮がある。八幡宮もまた、調べてみると応神天皇を祭神とする武神を祭る神社である。筆者の遊び場だった八幡宮は、土俵があり、奉納相撲が行われていた。幼い頃には何とも思わなかったが、この八幡宮も先ほどの八幡太郎義家が後三年の役の戦勝記念に立てたものだそうである。すると奉納相撲もタケミカヅチとタケミナカタの神事を彷彿とさせる。現在の住まいの側にある八幡宮は鎌倉初代征夷大将軍源頼朝が奥州征伐の戦勝を祈念して立てたものだそうである。

読者諸兄姉の近くにきっとある神社仏閣にも、この雑文に登場した神々や剣豪や偉人が居られるかも知れない。もしもご存知なければ、一寸だけ足を止めて由緒書を一読される事をお勧めしたい。筆者もつい最近、始めたことなので偉そうなことは言えないが、こうしたことはもっと、多くの人に楽しまれても良い事ではないだろうか。
by seagull_blade | 2004-10-11 17:13 | swordplay