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by seagull_blade

謝罪と責任。

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昨日、(2004年10月3日)サッカーをTV観戦していた。勿論、19歳以下の選手によるアジア・ユース選手権準々決勝である。筆者はさほどサッカーファンでは無いのだが、(野球の方が詳しいし、サッカーやフットサルよりは草野球の機会が多い)2002年FIFAワールドカップ以降、関心を持って観るようになった。大リーグ史上シーズン最多安打を記録したイチロー一色の2日間だったので、サッカーが少し新鮮に感じ、結構しっかり観ていた。

サッカーの国際試合を観ているといつも思うのだが、日本選手に比べて海外の選手は演技やアピールがとても上手い。ファールを誘発する為に、大げさに転んだり痛がって見せたり、また、相手のプレーに怪しい点があれば、自分のことは棚に上げて審判にアピールする。昨日のカタールのユース代表も、一寸いやらしいくらいであった。それに比べるとA代表にせよ、ユースにせよ、日本代表はそういう点において淡白すぎる。相手のファールで転ばされても、痛みに顔をしかめながらすぐに立ち上がる。相手のファールのアピールにせよ、私のような素人がみてもはっきりと解るファール(ハンド等)しかアピールしない。

日本人である筆者から見ると、こうした日本代表の態度は立派であると思うし、観ていて気分が良いものである。だが、国際大会においては「自責」はするが「他者を責めない」態度で随分と損をしているのは間違いないと思える。フィオレンティーナの中田を始め、海外で活躍している選手が、日本に居るときよりも明確に成長していると思わせる部分が、上記のような「タフさ」或いは「厭らしさ」であるのではないだろうか。

南米や欧州のサッカーをTVで観ていると、タックルやマーク、ヘディングの競り合い等、相手との接触をともなうプレーの際、殆ど遠慮と言うものがないことに気が付く。また、ファールにしても、誘発や審判に対するアピールなど本当に遠慮がない。相手を弾き飛ばし、飛ばされたほうも大げさに痛がってみせ、審判に最大限にアピールする。勿論、やりすぎればシミュレーションというファールを採られてしまうが、それに臆している素振りは殆どない。(イエローカードが累積していれば別であるが…)

「フランス人(アメリカ人ということもある)は謝らない」という言葉を聞いたことはないだろうか。欧州人(とは限らないが)はなかなか自分の非を認めようとしない。それどころか、例え自らの非が明確になったとしても、あらゆる言葉で食い下がる。我々日本人から見ると「素直でない」とか「いやらしい」というように感じる態度を彼等が取るのは何故なのだろう。日本人の感覚では強情な態度では却って損をするように思える。「自らに非があるのなら、さっさと謝ってしまったほうがお互いよいではないか」と我々は考える。謝ってしまったほうが楽になるではないかと。

裏を返せば、日本人は「謝れば責任解除」という、よく考えると不思議な思考をしている。例えば、何か失敗をした場合、すぐに謝ってしまうと我々の世界では大抵片付いてしまう。程度問題だが、一度謝った人間を更に追求したり、責めたりすると「謝っているのだから勘弁してやれ」と周囲に言われてしまう。不謹慎な例を持ち出して恐縮だが、相当なレベルの刑事事件の裁判などでも「改悛の情」や「反省」などが判決の前文に必ずと言ってよいほど出てくることから考えても、「謝れば責任解除」という思考は我々の中に根強くあると思う。

ところが、欧州を始め、多くの国ではそのように考えない。殊、欧米においては「謝る=責任を認める」という構図になっており、下手に謝ろうものなら、犯した罪、ミスに見合うだけの刑罰が科せられてしまう。謝ったら負けなのだ。日本の法体系もそうであるが、近代法は筆者の知る限り古代ローマにおける「ローマ法」を元としている。そのローマ法を溯ると、これは筆者の想像になってしまうのだが、古代バビロニアの「ハムラビ法典」に行き着くように思える。ハムラビ法典は「眼には眼を、歯に歯を」を原則とした量刑を基本としており、犯した罪と同等と考えられる量刑を科せられる法体系である。

アメリカの「司法取引」という制度に我々は違和感を覚えるが、ハムラビ法典を念頭におくことで何となくではあるが、理解できる。「謝った=(罪を認めた)のだから、それに等しい量刑を受けることは吝かではない。だが、私にはあなた方にとって有益な情報があるのだから、その分を割り引いて欲しい」という考え方は、罪に対する罰を完全に「量」の問題として捉えることが出来るからこそ発生する考え方である。そして、「謝った=罪を認め」てからも、勝負は続く。「罪を犯してしまった」ことが明確な場合は、ここからが勝負と言っても良い。彼等の発想のどこを探しても「謝れば責任解除」という思考は無い。

ところが、我々はそうではない。いたずらをして怒られたら、基本的には謝れば済むのである。謝ったあとに怒られることはない。だが、彼等は非を認めたら怒られるのである。自らの非を非として認めることは美質であろう。だが、それを自明のこととして考えるのはどうやら日本人だけ(少なくとも少数派)であるようだ。そのことはもっと認識されてもよいであろう。サッカーの国際試合だけならともかく、我々は個人としても国家としても外国と関っていかなくてはならない。事の良し悪しではなく、常識が異なるのだと言うことを認めてから、同じ土俵に立たないと、徒に感情的になってしまって「あいつ等は汚い。」「話が通じない」というように、コミュニケーションが取れなくなってしまうように思えるのである。
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by seagull_blade | 2004-10-04 14:22 | philosophism